「…宗一様、朝です。お目覚めになってください。」
日曜、午前9時。鈴の鳴る様な声で宗一は目を覚ました。
「あぁ、おはよう。リナ。」
「おはよう御座います、宗一様。朝食の準備が出来ております。それと着替えはこちらに」
リナが指差す先には、卸したての様なストライプのカッターシャツにダークブルーのジーンズが畳まれていた。
それは完璧な仕事であったが、メイドでありロボットであるリナなら当たり前の事であった。
「では宗一様、私はリビングでお待ちしております。お召し物を着替えられましたらお越しください。」
そう言うとリナは軽くお辞儀をし、宗一の部屋を後にした。
◆ ◇ ◆ ◇
あの日から数週間が経った。
俺が買ってきたエネルギーセルを取り付けたリナは、依然に増して家政に精を出しているように見えた。
「高純度だからエネルギーの循環効率が良いみたいです」と、一杯の笑顔を浮かべたリナは眩しかった。
「あのまま「あの部屋」から出て来なかったらどうしよう」
そんな思いは、リナが出迎えてくれた笑顔で何処かに吹き飛んでしまっていたのだ。
だが、喜んだのも束の間だった。
俺とリナは『あの日』を腫れ物を扱うように触れないでいたが、リナの様子が以前と違うのだ。
仕事に打ち込む姿はまるで俺を避けているようだし、完璧すぎる仕事もなんだか妙に居心地が悪かった。
「はぁ…、上手くいかないもんだな。」
ため息混じりに服の袖を通す。太陽の光を燦々と浴びたシャツが疎ましい。
ベッドの上に放り投げられた携帯電話を開くと、頼りない音と光のアラームが朝を告げていた。
今時旧式の二つ折りの携帯電話だったが、何故だが妙に気分を落ち着かせてくれた。
◆ ◇ ◆ ◇
リビングに宗一がやって来ると、リナの笑顔がぱぁと明るくなった。
「よくお似合いです、宗一様。」
リナはそのコロコロとした笑顔を宗一に向けると、つられて宗一も笑顔になった。
そのまま誘蛾灯に誘われるかのように、宗一はリナの向かいのイスに腰掛けた。
「なんだか今日の朝ご飯、豪華だな…。」
テーブルにはこんがりと焼けた食パン、半熟のベーコエッグ、ゆで卵とレタスのサラダ
コンソメスープに兎のりんご、そして鼻孔を刺激するコーヒの香り。
どれをとっても文句の一つない、宗一好みの完璧な朝食であった。
「今日はお休みですし、ちょっと豪華にしてみました。それに…宗一様、最近なんだか元気が無いようでしたので…」
「…そうかな?うん、…確かに最近レポートやらで忙しかったからね。それじゃいただきます。」
宗一は手を合わせると、パンをひと齧りした。さくりと小気味いい音がする。
その様子をリナは嬉しそうに見つめていた。
そんな彼女の前には食器はない。ロボットである彼女は食事を必要としないのだ。
だがその幸せそうな様子は、宗一が食事を楽しむことを共感しているかのようであった。
「そうだ、リナ。昨日も言っていたけど、今日は出掛けるよ。準備は大丈夫?」
「はい!バッテリーも予備までしっかり充電しておきました。約20時間、連続稼働が可能です。」
「ん、そうか。なら食事が終わったら着替えてきなよ。洗い物は俺がやっておくから。」
宗一がそう口にした途端、リナは「えっ」と小さく驚いた。
「…そんな雑務は私にお任せください。それに折角の宗一様のお休みですのにっ。」
「休みだからだよ、たまには俺がするのも悪く無いだろう。いつもリナには世話になっているからね。」
「でも…」とリナは小さく呟いたが、主人の命令は絶対である。宗一にそう言われて、リナには反論する術がなかった。
「それに女の子は準備に色々時間が掛かるものだろう。俺は大丈夫だから、休みを満喫できるような服装でね。」
「はい…畏まりました」
とリナは少し沈んだ表情を浮かべたかに見せたが、すぐに表情を笑顔に切り替える。
「では、とびっきり可愛い衣装に致しますね!」
そう言って言ってリナは両手をぐっと、小さく掲げてみせた。
宗一は「期待しているよ」と言うと、料理の感想を交えながら食事を済ませていった。
最後の兎のりんごを口にすると、賑やかだったデーブルも白い食器だけになった。
「…ごちそうさま、美味しかったよ。それじゃあ皿を洗ってくるから、リナは着替えておいで」
「はい、ではお皿洗い、宜しくお願いします。ええと洗剤は…」
「それぐらい知っているよ。ほら、行っておいで。」
「…では、失礼します。」とリナは小さくお辞儀をすると、メンテナンスルームに引っ込んでいった。
休日の繁華街は人とロボットで溢れていた。
楽しそうに雑貨を眺めるカップルや映画館に足を運ぶ青年と少女
カフェテラスで談笑する老夫婦…。それらが皆、自分たちの仲を喧伝するかの如く休日を満喫していた。
宗一達もその中の1つであった。
人の穂波に飲まれないようにと、腕をひしと絡めて歩く二人。
だが、その行き先は件のカップルに漏れず、当てのないものであった。
暫く歩くと、二人は繁華街とビル街の間に辿り着く。
人の流れがぱたりと切れるそこは、休日と平日の狭間になっていた。
「あの…、宗一"さん"。今日はどこに向かわれるのですか。」
上目遣いでリナが尋ねる。その瞳は何かを伝えようと宗一を見つめていた。
「うーん、そうだな…本屋にでも行って、あとは適当。うん、服屋に行くのもいいかな」
宗一は少し考える素振りを見せた後、前を向いたまま答えた。
「服屋、ですか…。あの…やっぱりこの服、可笑しいですか?」
そう言うとリナは立ち止まり、恥ずかしそうに口元を抑える。
目を逸らし顔を赤らめるリナに、宗一は困った様な笑顔を浮かべた。
「あー、そういう意味で言ったんじゃないんだ。その服も本当に似合っているよ、まるでお嬢様みたいだ。」
宗一も少し恥ずかしそうに答えたが、リナはなおさら顔を赤くするだけであった。
「褒めすぎです…。」とリナはぽつりと呟く。
照れた笑みを浮かべ、紅潮する頬に手を添えるリナは、お嬢様をわざとらしく演じているかのようであった。
だが、リナの姿は果たしてお嬢様のそれであった。
胸元にレースのフリルをあしらった白いワンピース。
華奢な手足を覆い隠すレースのロンググローブとニーソックスがガラス細工のよう繊細さを演出していた。
肌の露出こそ少なかったが、その侵略不可の領域は男の劣情をかえって刺激する作りであった。
そんな白尽くめのリナに黒い影がぶつかった。
「きゃっ!」
宗一が倒れかかったリナを抱きとめる。
その影は全身を黒いスーツで覆った美女であった。女はぶつかった拍子にずれたメガネを直すと、二人に顔を上げた。
その表情こそは申し訳なさそうであったが、その中にある妖艶さをちっとも隠そうとしなかった
「あら、ごめんなさいお嬢ちゃん。お姉さんちょっと急いでてて、怪我はないかしら?」
女は二人に軽く頭を下げた。
「こちらこそごめんなさい」とリナも頭を下げる。
同じ様な仕草をした二人であったが、手さえも黒い手袋で覆った女と純白のリナは酷く対照的であった。
「そう、よかった。それじゃ、お邪魔してごめんなさいね。」
そう言うと女は足早にビル街に向かっていく。その姿もビルの影に溶けるように直ぐ見えなくなった。
「リナ、さっきの女もロボットかい?」
リナが再び腕を絡めて歩き始めようとした時、宗一がふと尋ねた。
「…そのようですけど、どうかされましたか?」
リナは絡める腕に力を入れ、宗一の腕に胸を押しつけた。
しかし、自分の方が魅力的であることを主張するような行為も、ただ虚しい隙間が広がるだけであった。
「いや、熱暴走しないのかな、と思って。」
「へ?ねつ、暴走ですか…?」
リナは思わず小首を傾げてしまった。
「うん、あんまりにも隙間がなかったからね。」
そう言うと宗一は周りの男女の群れを見渡した。
男の従者の様に付き従うゴスロリ女もいれば、その興味の赴くままに男を引きずるミニスカートの小娘もいた。
勿論、リナたちの様な微笑ましい二人組も大勢いた。
そんな様々な男女が街中を闊歩していたが、女達は一様に手足を衣服で覆い隠していた。
それは彼女達がロボット故、関節を覆い隠す必要があったからだ。
「あの人が着ていたのは新しいタイプの様です。」
「…新しいタイプって?」
「最近発売された物みたいです。ええと、製品のサイトによると…衣服内部の小型のファンで冷却。静音性にも優れています…だそうです。」
「へぇ、そうなんだ。リナもああいうスーツ、着てみたい?」
「…私に、似合うでしょうか?」
ほんの僅かな無言の後、宗一は笑顔をリナに向けた。
「きっと似合うよ。そうだ、本屋に行った後はリナの服を見に行こう。何か良いものが見つかるかもしれない。」
二人は結局、本屋での買い物を程々に、足早に服屋へと向かう事になった。
「服、沢山買っちゃいましたね…。」
「あぁ、そうだな。でも大した値段じゃないよ。」
宗一は両手に抱えた紙袋に目を向けた。
店員に勧められるままに購入したロボット用の衣類、4点。
有名デザイナーが手がけた華やかなデザインは、小柄なロボット達の最近の流行だった。
「私はその、これだけでよかったのですけれど…。」
リナが右手に持った紙袋をぎゅっと胸に抱え、申し訳なさげに呟いた。
紙袋の中には「本来の目的」であったメイド服用の新しいロングクローブが入っていた。
「いいんだ、それにどの服もリナには良く似合っていたよ。…でも、店員があんなのばかりだとは思わなかったな。」
宗一は店の方に振り返ると苦笑混じりの溜息をついた。
街頭にせり出した看板にはポップ調の字体。「この街一番の品揃え」は嘘偽りではなかった。
だが、眼光鋭い強面の店員達が、メルヘンな服を手に押し寄せる光景は悪夢に近いものであった。
「まぁ、悪い店では無かったから良いのだけれども…」
「そうですね。女の子達はみんないい子ばかりでしたし。」
「でもなんでまた、あんな少女タイプばかりだったんだろうな。…いや、考えるのは止そう。」
二人が荷物を持って歩き始めると、大きな人だかりにぶつかった。
先ほどまで二人の世界を形成していた男女の群れが、輪の中心の人物に視線を向けていたからだ。
リナもその人物に気がつくと、思わず声を上げた。
「あの人、女の人です…。」
恐る恐る指差す先には、サングラスを掛けた女が居た。
それは、人口の3割にも満たない生身の女であった。
流行りの服を着た女は別段美人という訳ではなく、リナや他のロボットとは比べるまでもなかった。
だが、その血色の良い手足が男達の目線を容赦なく奪った。
ロボット達は、その様子を諦めたような表情で見つめるしかできなかった。
露出した四肢は人とロボットを隔てる壁であり、それは埋め難き差であった。
「リナは、女を見るのは初めてかい?」
「は、はい。宗一さんは、その…。」
リナは胸に抱えた紙袋をぎゅうと抱きしめた。
肩の内側から、硬い物が擦れる音が響く。嫌に甲高いそれは、人のざわめきを無視して二人の耳に届いた。
「…家に妹が居る。だから、初めてじゃないよ。」
宗一は確認を取るかの様に答えたが、リナにとっては既知の情報であった。
「それに、この辺りには女が良く出没するらしい。」
宗一の言葉にリナはいよいよ身体を強張らせた。
宗一はリナのそんな様子に首を横に降ると、穏やかに語りかけた。
「リナ、別に不安になることは無いよ。俺は女を漁りにこの辺りを歩いていた訳じゃない。」
宗一は女の方を向くと小さく吐息を漏らした。
「それにあの女は…、俺は人間の女には全く詳しくないれども、きっとロクでもない人間だ。」
「どうして、ですか?」
「この辺りは俺達みたいなのしか居ない、週末ならなおさらだ。なのに女は出てくる、どういうことだと思う?」
「それは…それは。」
リナは当てのない指示語を繰り返すだけで、答えはちっとも出て来なかった。
それはロボット達が生身の女に関する一切の批判を規制されていたからだ。
だが、宗一は「それが答えだよ。」と言うと、女の様子をちらりと伺った。
女はPDAを頻りに触るだけで、酷く周りに無関心であった。
その一方で、誰もが興味と畏怖が入り混じった視線を女に向けていた。
幾重もの人波が女の一挙動一投足に翻弄され、その強大な引力が場を支配していた。
「つまりそういう事だと思う。実際にこの前、不用意に話しかけた奴がスタンガンを喰らっていたよ。」
「それは、『正当防衛』ですか?」
今度は言い淀むことはなく、明瞭な答えが宗一に返された。
宗一は『あぁ』と呟く。投げやりな肯定が宗一の身体から力を奪った。
「…あの後、男はずっと伸びていたけれど、誰も助けなかったよ。法律のお陰でね。」
それから宗一も黙ってしまった。これ以上は、況して女が居る状況では言えなかったのだ。
リナは同意も反論も出来なかった。それがこの世界では当たり前だった。
やがて女は何処かに消え、休日の繁華街は騒がしさを取り戻していった。