今日も大量の廃棄物があちこちの工場から送られてくる。 川瀬幸良の仕事は、産業廃棄物処理の工程の管理業務である。以前は同じ政府系機関で も先端科学研究所の開発部門という花形部署にいただけに今の仕事は正直、退屈であった。 「今日の予定は・・・ああ、そうだ、前に俺がいた前橋の施設からくるんだったな」 日程表を確認しながら、川瀬は大きなあくびをした。 「お待たせしました。前橋の先端科学研究所からの廃棄物です」 専門の運送業者のドライバーが来たらしい。 川瀬は、内容を確認しながら、処理方法を部下に指示した。 (おや?) どこかで見たようなパーツである。 (たしか、これは・・・) 忘れもしない、川瀬が平研究員だった頃に開発に携わった家庭用アンドロイド試作機の 破片に違いない。 (不用心だなあ。こんな機密品を新センターに持っていかずに棄てちゃって外部の業者に 運搬させるなんて) と思いながら、パーツの型番を確認した。残骸の中の一つに、型番とシリアルナンバーを 書いた紙片が貼りつけてある。 (ああ、やっぱり、型番はHMX−17Bだな。え〜と、 製造番号でいうと、 0276 か・・・) 0276、どこかで聞いたような番号だな、と川瀬は思った。何だっけかなあ。たしか、 HMX−17のタイプで、0276といえば・・・ (あっ、そうだ。前に俺がよくメンテした機体だ) 前橋のセンターに所属していた頃、川瀬が担当していた機体はそう多くないので、その 頃よく出張メンテナンスをした機体のシリアルナンバーは記憶していた。 「ちょっと待っててな。ここの山は、しばらくそのままにしといて」 と、作業員に指示して、川瀬はデスクに戻った。急いで、自分の昔の手帳のページをめく った。 「0276・・・0276は、と・・・」 あった。そうそう、高崎のバネ工場の家だ。よく覚えている。たしか、優とかいう名前 をつけて、娘として育てていた家だ。 「おかしいなあ。何であの機種が壊れたまま廃棄扱いになってるんだ?パーツを交換した としたって、古いボディーはちゃんと保存しておくはずなのに」 疑問を感じた川瀬は、移転した研究所に電話してみることにした。 「ああ、どうも、川瀬です。お久しぶりです。ええ・・・実は・・・」 川瀬が事情を説明すると、さいたまセンターの担当者は、家庭用アンドロイドHMX− 17Bのバージョン205B、登録番号0276は紛失中扱いであると述べた。モニター 家庭からも紛失届けが提出されているという。 「ははぁ・・・そういうことでしたか・・・」 なぜ分解状態で廃棄されていたのかは川瀬には想像もつかなかったが、ともかく疑問は 氷塊した。あの気のよさそうな「父親」や「母親」がどんな思いでいるかを想像し、少し 心が痛む気がした。 「モニター家庭への連絡はそっちでやってくれるんですよね?そしたら、ともかく、見つ けられる限りパーツは拾って、そっちに届けさせますから」 と言って、川瀬は電話を切った。 一瞬、あのバネ工場の家に連絡してやろうかとも思ったが、今の自分の仕事はアンドロ イドのメンテナンスではないし、お節介だとも思ったから、やめておいた。 もし不慮の事故か何かだったとして、あの両親のことだから、「娘」がバラバラになっ ていると知ったら、さぞショックを受けるだろう。そんな悪い知らせをするのは、今の担 当者に任せておこう。・・・ 水内正宏は、家庭用アンドロイド開発室の室長に呼ばれ、デスクを立った。 ちょうど一つの開発プロジェクトを終えた区切りの時期である。次は何の仕事だろう。 それとも、前から志願していたアメリカへの公費研修の選抜に選ばれたんだろうか。そん な期待をしながら、開発室長のもとに行った。 「ああ、水内か。君に担当してもらいたい件があるんだけど」 開発室長は、以前は大阪のセンターにいた人間らしいが、 現在は、 ここ東京の本部の HM開発室責任者となっている。「関西人」という類型的イメージではなく、穏やかで腰 の低い人柄の上司である。 「実は、僕にもどういう内容の仕事になるのかわからないんだけど、今、君しか手のあい ている者がいないしね」 と言って、開発室長が仕事内容の説明をはじめた。 取り扱い機種はHMX−17タイプの家庭用アンドロイドだ。水内も熟知している機種 である。目下、原因は不明だが、HMX−17タイプのうちの一台が大破しており、今、 修理中であるという。 修理というより、なかば以上、 作り直しに近いほどの破損度だが、 ハードディスクと CPUは生きているため、あくまで扱いは「修理」となる。 「修理自体は、今やっているんだが、その後、モニター家庭にすぐ戻していいものかどう か、上層部も検討中でね」 「はあ」 「で、修理が終わったら、状態を細かく調べて、レポートを作成してほしいんだ」 何だ、そんな仕事か、と水内は思ったが、文句は言えない。 「はい、わかりました」 と言って、開発室長の部屋を出た。 大メンテナンスルームに行くと、修理台の上で、くだんの機体は修理の最中であった。 今の段階では、まだ人間の形はなしていない。故障ではなく大破したものの修復なので、 修理というよりは、たしかに作り直しといった風情である。 基本的な組み立てはいまだに手作業であるが、どうやら今日明日中には片づきそうな様 子である。 (つまらない仕事だなぁ) 水内は嘆息した。アンドロイドの新規開発ならともかく、修理済みの既存機種の状態チ ェックなんて、と少しうっとうしくなった。 一週間ほど経った。水内は再び開発室長に呼ばれた。 (そういえば、あの件、その後どうなったんだろう) と水内は不審に思った。機体の修復はすぐに終わりそうだったのに、あれから何の指示も ない。 「水内君。そこに座ってくれ」 「はい」 水内が開発室長の隣の席に腰をおろすと、開発室長は、 「こないだ君に言った、破損機種のことなんだけど、修理自体は終わったんだが、ちょっ と面倒な状態らしいんだ」 と言った。 「はあ」 何のことだか水内にはわからなかったが、開発室長の説明によると、ボディの機能は正 常に動くようになったが、「心」の部分がおかしいのだという。 アンドロイドの「心」とは、CPUとハードディスクの状態であるが、それが著しく不 安定で、人間でいう精神破綻、神経衰弱の状態であるらしい。 「では、CPUとハードを交換したらどうでしょう」 そうすると、人間でいう脳を入れ替えることになるのだから、ボディは同じでも、実質 別の「人格」になってしまう。しかし、今回はそうはしない方針なのだという。 「今のところ、何とも原因はわからないんだが、何らかの精神的なダメージがあったんだ ろうな」 それで、私の仕事はどうなるんですか、と水内が言いかけると、開発室長は、 「そんなわけで、君にやってもらう仕事はちょっと難しい内容になりそうなんだ・・・」 と、職務内容の説明を始めた。 開発部では、今回の件をむしろ僥倖として、アンドロイドの「精神」を研究する好機と とらえた。そこで、安易にCPUを交換するのではなく、結果としてアンドロイドに生ま れた「心」とその「心の傷」を人間のようにケアできるか実験することになったのだとい う。 「機体はすぐにはモニター家庭に帰さず、うちの研究所でしばらく観察しながら、精神科 医のセラピーを受けさせる」 「はあ?」 と、上司の前ではあったが、思わず水内は頓狂に叫んでしまった。狂気の沙汰だ、という 気がした。 「ともかく、そう決まったんだ。君は、機体を毎日、病院まで送り迎えして、観察記録を つけておくように」 開発室長は強い調子で命じた。 (やれやれ、何だか、面倒くさそうなことになってきたな) 水内にとって気の進まない方面の話ではあったが、今日はようやく「ご対面」の日だ。 いい加減なことに、その日まで肝心の機体自体の詳細データは確認していなかったが、資 料を見て驚いた。 「何?女?それも女子高生仕様?」 大学院時代も研究員になってからも男性社会の中で生きてきた水内にとって、「女子高 生」は謎めいた存在である。今までに女性型の機体を扱ったことはなくはなかったが、そ れは完成前の設計・開発に関与しただけで、完成品の女性型と接したことはない。 「あの機体です。もうすっかり何かにおびえている様子で、こちらが何を言ってもほとん ど反応しないで、口もきかないんですよ」 別の技官が独房の中の少女を指さして、水内に説明した。殺風景な独房の中で、そのア ンドロイドの少女は向こうの壁の方向に、いわゆる「体育座り」をし、下ばかり向いてい る。 「君が、HMX−17の0276番だね。僕の顔、見えるかい。僕はここの研究員の水内 正宏。今回、君の修理記録を担当することになったんだ。これから、病院に行くよ。いい ね?」 水内は少女の傍らにしゃがんで話しかけた。事務的にならず、極力やさしく聞こえるよ うに、と意識しながら。 が、少女は一瞬ピクリと反応を示したものの、イヤイヤというように首を振って、また うつむいてしまった。 (まいったなぁ・・・) 「女性」の扱いに不慣れな水内は、傍らの技官に助け船を求める視線を送ったが、技官 は気づかないふりをしているかのように、 「大学病院の予約はとれてますから、ちゃんと定時までに届けてくださいよ」 と言って、出て行ってしまった。 なだめすかす。頼みこむ。いろいろと試みてはみたが、どれもはかばかしくはゆかない。 少女はガンとして動こうとはしなかった。 しかたない。無理矢理にでも連れて行かないと。それが僕の仕事らしいから・・・と、 水内は少女の手を無理に引っぱり、むずがる少女を強引に車に乗せ、病院へと向かった。 女性の手を握る、などという経験は乏しい水内だったが、所詮はただの機械だと思えば、 何ということはない。 大学病院の担当医は、その方面では権威者らしい50代の女性教授で、革新政党の代議 士にでもいそうな威勢の良いパワフルな「おばさん」だった。 「私にとっても、ロボットのカウンセリングというのははじめてのことですが、室長さん のお話では、人間とほぼ同じ心があるということですんで、ともかくやれるだけはやって みますよ。焦らずに、ね」 大柄な体で笑う医師は頼りになりそうな雰囲気ではある。 約1時間、水内は大学病院の廊下のベンチに座って、セラピーの終わるのを待っていた。 あの先生はなかなかの名医のようだけど、どうなんだろう、閉じてしまった心を開かせる って、そんなに簡単にできるんだろうか、俺もつきあいきれるだろうか、と水内は不安に 思った。 (だいたい、開発部もおかしいよな。何か精神的な傷がありそうだ、じゃなくて、ハード ディスクを直接読みこんで、悪い原因があるんならその情報をデリートしちまえば済むん じゃねえか。何も、人間みたいに、なんて実験しなくてもいいのに) ついつい上層部の方針へと不満の矛先が向かった。 しかし、冷静に考えみれば、たしかに研究者にとっておもしろいテーマかもしれないと いう気もしてきた。 国家予算の研究費で開発された「人の心」を持つアンドロイドが人間並みに「心の病」 にかかったのだとしたら?それに精神医学的なセラピーを施したら人間と同じように反応 するのか? だんだんと興味が湧いてくる気がする。 どのみち業務命令は拒否できないんだ、乗りかかった船だから、やれるだけはやるか、 と、気を取り直してゆくことにした。 約1時間経って、0276のアンドロイド少女が女性医師に手をひかれ診察室から出て きた。あいかわらず表情は暗く、下ばかりを向いている。 「優ちゃん、ご苦労さま。明日も先生にお話し聞かせてね」 医師が明るい笑顔を作って少女の肩を叩いたが、少女はほんの僅かにうなずいただけで、 やはり暗い表情で下を向いたままである。 医師は、水内に 「ちょっと・・・」 と、診察室に入るよう促して、少女には、 「優ちゃん、先生と水内さんとで、ちょっとお話しがあるから、そこで座って待っていてね」 と、やはり明るい調子で告げた。 ふうん、名前がついてたんだ。水内ははじめて知ったが、だからといってどうという感 慨は別になかった。 「水内さん」 医師は真顔になって、カルテをめくった。 「もし、あの娘が本当に人間と同じ心を持っているのなら、あの娘は何か恐ろしい経験を して、ショックから立ち直れないでいるようです」 「はあ、そんなこと言ったんですか?」 「いえ、言ってません。あの娘は、まだそんなふうに自分の心の傷をしゃべれる段階では ないんです」 じゃ、どうしてそんなことがわかるんだよ、と一瞬、水内は食ってかかりたくなった。 が、専門家が素人に口出しされることは不愉快なことだと自分の経験からよく知ってい るので、黙って耳を傾けた。 「ただ、過去の症例から見ると、何らかの精神的ショックで失語症、またはそれに準ずる 状態になるということはよくあることです。あなたも、まずは・・・」 「まずは?」 「気長にやることですよ」 と、医師はにっこり笑った。 「具体的にはね」 水内が腑に落ちなさそうな顔をしているのを見て、医師はまず無理に「自白」を強要す るような態度はNGだと釘をさした。 こちらが軽い雑談でもして、本人がしゃべりたくなるまで、じっくり待つ、しゃべり出 したら変な茶々は入れず、相手の話を「たぐり出す」ことを意識する、と、コツを説明した。 「あなたも、そのつもりでね」 医師は、しっかりやれよ!というように水内の肩を叩いた。 研究所施設に帰った。殺風景な独房のごとき部屋で、水内はアンドロイド少女と二人き りになった。 医師は、軽い雑談でもして、などと言っていたが、いったい何を話せばいいかなどわか らない。秋葉原でこないだ買った基盤のことなど話しても興味を示すとは思えなかったし、 鉄道写真の話をしても、おそらくは興味は持つまい。 「先生のところで、何を話したのかは・・・まあ、君がしゃべりたくなったとき、言って くれればいいから。とりあえず、数値のほうを計りたいんだけど、いいかな?開けるよ。 いや、これは、ちゃんと断ってから開けるんだからね、いいかい」 慎重に確認をとって、ボディーのハッチを開けて中を確認しようと手をのばした。 少女は、またも、いやっ!と言うように体をそむけた。 「ねえ、君、そんないやがってたって、しょうがないじゃないか。こっちもすきでやって るんじゃないんだよ、仕事なんだからさぁ」 と、なかばうんざりしたように言って、少女の腹部にもう一度手をのばしたが、少女は震 えて、おびえたような表情で、水内のほうを向いた。目に涙がたまっているように水内に は見えた。いったい何を怖れているのか、体を縮こませて震えていた。 (そうか・・・無理強いはダメなんだったな) 医師の助言を思い出し、ここで強引に迫ったら、元も子もなくなると、今夜はそっとし ておくことにした。 「いや・・・いいんだ。ごめんよ、無理を言って。・・・え、と・・・じゃ、おやすみ」 まだ時間は7時だったが、場違いな「おやすみ」を言って、水内は部屋を出た。疲れが どっと出る気がした。 10月6日 今日も0276は一言もしゃべらない。 病院の杉本先生は、「いい娘よ、あなたは」などと言っていたが、本当にカウンセリング 室の中では「いい娘」になっているんだろうか。俺にはそうは見えない。 10月7日 今日も0276は一言もしゃべらなかった。 あいもかわらず、研究所の個室では、うずくまって震えているばかりだ。 彼女の「心の闇」が何なのか、俺にはわかりそうにない。 10月8日 今日も0276は一言もしゃべらない。 病院の行き帰りの車で、こっちからいろいろな話をふっても、たまに小さくうなずくだけだ。 先生は、「これからですよ、気長にね」と当方に告げるのだが。 10月9日 今日も0276は一言も発しなかった。 本当にこんなことしてて、意味があるんだろうか。こんなやり方、かえって非人道的な気 がする。ハードの情報を直接デリートすればいいのに、と何度も思う。 この「実験」自体が残酷なことに思える。 だが、杉本先生はあせっている様子はない。 「明日もお話ししましょうね」 などと言っていた。 0276は、しかし軽くうなずくだけで、挨拶の言葉もない。 本当に、こんなこと続けていて、いつか「心」を開いてくれるのかな、と水内は思いな がら、自分がノイローゼになりそうに感じた。 大学病院は東京の信濃町にあり、研究所のある市ヶ谷からは目と鼻の先だったが、その 送迎の車中はいつも水内にとって苦痛だった。 今でも少女の負った心の傷の原因となった経験が何であったかはわからない。ただ、時 間が解決するものもたしかにあるのだろう。以前に比べると、外出するときの拒否反応が 少し弱くなったような気もする。 こうして、だんだんと「心」を開いてくれるようになったら・・・なったら、俺は何を したらいいんだっけ、と一瞬だけわからなくなった。 (ああ、そう、データをとって記録するんでした) 何を今さら、ということを水内は心の中で反芻した。 少女の「自己開示」が始まりつつある、と、ある日の帰り際に杉本医師が水内に言った。 ジコカイジ?何のことですか?と、水内が聞き返すと、医師は、少女自身が自分のつら い経験をだんだんしゃべろうというきざしを見せてきたのだという。 (そうなのか・・・) 俺にはそんなふうな態度なんて見えないけどなあ、と水内は思った。 なぜこの先生にはしゃべれて、俺にはしゃべれないんだろう。ロボットの専門は俺のほ うなのに、と、水内の中にある種の「悔しさ」が芽生えた。 (ようし、いつも中でどんな話をしているのか、明日は立ち聞きしてやれ) 翌日も、いつも通り、車で大学病院まで行き、少女を杉本医師に託して、水内は廊下に 控えた。少し時間が経った頃、周囲に人の目がないことを確認して、水内はドアの横に立 った。 「そう・・・そうなの・・・つらなかったよね。そうだよね」 ・・・ 「うん、うん。そうだね。先生もそう思うよ」 ・・・ 「ひどい人たちだね。先生、その人たちが憎いよ」 少女のほうの声は小さくて聞こえなかった。 医師の声は不定期的に、たまに聞こえてくるだけなので、少女も饒舌に話しているので はなく、ときたまポツリポツリという程度に話しているのだろう。 聞き耳をたてると、杉本医師のセラピーは、少女を「指導」しているという感じではな かった。理工系以外の知識に乏しい水内は、セラピーとはお説教でもしているのだろうと 思っていたが、説教どころか、医師自身は意見すらせず、ただ肯定しているだけのようだ。 俺は・・・と省みると、関係のない話をしているときはともかく、医師のいう「話をた ぐり出」そうとしているときは、説教口調になっていたことを思い出した。 「だからさぁ、黙ってたって、わからないんだしさあ」 「つらいことがあったんなら、しゃべっちゃうえば楽になるんだよ。ね」 「人間もロボットも、過去はある程度は忘れて、前を向いていたほうがいいんじゃないの かい」・・・・・・ 水内はほんの少しヒント、いや、ヒントのとっかかりを得られた気がした。だが、もし オウム返し的なしゃべり方が効くのだとしても、それには、まず相手が話してくれなけれ ばはじまらない。少女が俺に自分のことを話すようになるのはいつのことだろう。 (いや、別に仲良くなることは俺の仕事じゃないか) という当たり前の考えは、なぜかこのときの水内には浮かばなかった。 11月25日 0276が、ほんの少しだが、感情を表に現した。 俺が帰ろうとすると、服の端を掴んで、しきりに首を振った。 帰らないで、ということなのだろうか。一人でいると寂しい、ということなのだろうか。 まだしゃべってくれたわけではないので、俺には真意はわからない。 だが、俺に対して、「拒絶」以外の感情を表現したのは、はじめてかもしれない。 俺は、黙って一晩、そばにいてやることにした。 心なしか、いつもよりスリープ中の顔が穏やかだったように見えた。 11月29日 0276が、はじめて、ちゃんとしゃべった! この独居房のような部屋に泊まり込んで、5日目になるが、今朝、はじめて、小声では あったが、俺に「おはよう」と言った。 ここ数日は病院に行こうと手をひいても、以前ほどいやがらなくなってきている。 12月1日 0276が、ようやくメンテナンスハッチを開くことを了承した。 杉本先生の話では、以前の0276は自分がアンドロイドであるという自覚がなく、それ を唐突に知ってしまったことも0276の精神的ダメージの一つになると言っていたが、 今日は、胸部・腹部を開いても、比較的いやそうな顔はしていなかったように思う。 ただし、服を脱いで胸を見せるときだけは、ためらっているそぶりだった。 「水内さん、あのね・・・」 アンドロイドの少女0276は、少しうつむき気味の顔で、水内の顔色を窺うようにし て話しかけてきた。 「ん?何だい?」 ハンドルを握りながら水内が言うと、少女は、 「私・・・いつ、家に帰れるの?」 と、せつなそうに言った。 水内は、 「この実験が終わってからさ。研究所にとって有益なデータが得られ次第、帰れるさ」 とは言わず、 「ああ・・・先生も、君はだいぶ元気になったから、そろそろいいんじゃないかって言っ てたよ。きっともうすぐだよ」 と励ました。 「うん・・・」 少女は静かにうなずいた。 12月4日 通院はとくに変わったことはなかった。 夜、スリープ中の0276が、蚊の鳴くような声ですすり泣いていた。 よくあることだったが、聞き耳をたてると、 「お母さん・・・」 と言って泣いている。 0276は、もう何ヶ月も育ての家族と会っていないのだ。俺はなぜか、かわいそうにな って、少しだけもらい泣きした。 0276には気づかれなかったはずだが。 機械の身の上に同情するなんて、俺のほうがどうかしてきたようだ。 その後も、ときどき、セラピーの最中のカウンセリングルームに水内は聞き耳を立てた。 手法を盗むため、というより、少女が医師とどんな話をしているかが気になった。 以前は、 「そうだよね」 とか 「本当にそうだね」 というような相づちばかりだったのが、近頃は、 「まあ、頼もしい!」 とか 「その調子よ!」 と、積極的に励ますような声が徐々に増えてきた気がする。 少女自身が前向きな話をし始めているのだろうか、と水内は思った。早くあの娘ともっ ともっと、いろいろ話したい!水内は心の中で叫んだ。 日本政府開発の家庭用アンドロイドは、この種のロボットとしては珍しいことに、「味 覚」がある。食事をし、「おいしい」、「まずい」と感じられるようにできていた。 もちろん、食べたものは後で体内に埋め込まれた生ゴミ処理機で分解し、取り出すのだ が、この機能があるからこそ、0276のアンドロイド少女も自分の正体に気づかなかっ たのだろう。 病院の外来が休みである今日は、水内が提案して、少女と二人で料理をしてみることに した。大学の学部と大学院で計6年、就職してから2年、自炊生活に慣れている水内は、 外見の印象に反して、以外と手際が良かった。 それに対して、少女のほうは不器用なのか、なかなかうまく手が動かない。 「いいよ、無理しなくても、ね。僕がやっといてあげるから、そこで休んでいなよ」 水内が言うと、少女は悲しそうな顔をした。 (しまった、かえって良くなかったかな。こういうときは、役割を与えたほうが良かったかな) 水内は後悔したが、もう料理はできつつあった。 できあがった料理を食べながら、少女は、 「水内さん・・・私のこと、変な娘だって思ってる?変なロボットだって思ってる?」 と、寂しそうな目をして問いかけた。 「そんなこと・・・ないさ」 一瞬だけ言葉につまりながら、水内が答える。 「本当に・・・本当に幸せだったんだよ。いろいろあって大変ではあったけど・・・あのときまでは」 「あの・・・とき?」 少女の目はまた涙にうるんでいるようだ。人差し指で拭うと、 「あのね・・・先生には、もう話したんだけど・・・」 と、「あのとき」の話をはじめた。 拘束。監禁。強姦行為。破壊。・・・少女が断片的に明かした話は、水内をして驚愕さ せた。フィクションの世界でなら、その種の話は嫌いでない水内だったが、さすがに目の 前の少女が、ときに涙しながら語る被害談は、水内の心を冷え冷えとさせた。 「うん、うん・・・そうだったんだ・・・」 水内は、黙って相づちを打つしかない。 「そうだよな・・・そうだよ・・・つらいよ、そりゃあ・・・」 いつのまに杉本医師と同じ口調でオウム返ししている自分には気づいていない。水内は ポケットから汚れてまるまったハンカチを取り出し、少女の瞳をそっとぬぐった。 「ひどいよ・・・ひどすぎる・・・俺も本当に許せないよ、そいつらは」 水内は少女の不幸に心から同情しつつ、少女の表情がしゃべっているうちにだんだんと やわらいできたように思えた。水内はそっと少女の手を握った。 12月15日 今日、優がはじめて笑った。 かすかに、ではあるが。 外来の帰り、俺に向かって、今日はカレーが食べたい、と言って。 12月17日 優がはじめて、自分の趣味を話を一生懸命に語った。 優は馬がだいすきで、中学のときから、近くの競馬馬の厩舎に通っていたのだという。 「かわいいんだよ、本当に」 と言いながら、自分がつけたという馬の名を俺に教えたときの優は、本当にはじめて見せ る子どもらしい笑顔だった。 公式の観察日誌とは別に自分の私的日記をつけながら、水内は、思った。 優−0276のアンドロイド少女−の心の傷の回復・・・開発部のいう「実験」は、た ぶん成功ということになるのだろう。 今後のアンドロイドの「心」の開発設計の参考となるデータがとれれば、水内にとって も仕事は終わることになる。 優は、おそらく里親のもとに帰されるはずだ。 (あいつ、喜ぶだろうな・・・) そう思いながらも、なぜか優が帰れるということに心弾まないでいる自分に水内は気づ いた。 「水内さん、それでね、ジョンコがもうケガしてレースに出られなくなったらね、太郎さ ん、何て言ったと思う?」 優は、元気になると、高崎の厩舎の話ばかりをした。 サイゴウジョンコ、村上厩舎、村上先生、太郎さん、西郷さん・・・いい加減、水内の ほうが飽きてくるぐらいに楽しそうに厩舎の話を繰り返す。 水内は、もちろん、笑顔で聞いてやるしかない。 優は、とくに先輩厩務員の「太郎さん」がいかに頼りになる師匠であるかと熱を入れて 話した。 「太郎さん、本当にすごいんだよ。私が何を考えてジョンコと接しているか、すぐに見抜 いちゃうんだもん」 「そっか・・・でも、その太郎さんって人は、別に大学も出てないし、所詮、専門職の肉 体労働者なんだろ」 「は?」 優が眉を曲げて、微妙な表情をした。水内が何を言いたいのかわからない、という顔だ。 「いや、何でもない。そっか、そっか。いい人なんだな、その人。良かったな、優ちゃん。 いい師匠と出会えて」 水内は慌てて作り笑顔をしながら、何で変なことを言ったのかな、俺、と反省した。 優は、近頃、「太郎さん」の話ばかりする。そいつが何者かはわからないが、水内の中 にあった感情が「嫉妬」であることは、水内自身にも否定できなかった。 「水内さん!いいお天気だよ!そろそろ行こうよ!」 優は明るい声で水内を呼んだ。たしかに春間近の東京の空は澄んでいた。 「病院、今日で最後・・・だよな」 「うん!」 優は嬉しそうに答えて、車に乗った。 車中で、水内が、 「優ちゃんは、家に帰ったら、まずどうするんだい?」 ときくと、優は 「うん、まずは・・・お母さんと会って・・・会って・・・」 「うんと甘える?かい?」 水内が笑うと、優は、恥ずかしそうにうなずいて、えへへ、と舌を出した。 カウンセリング室の前の廊下で優を待ちながら、この病院に通うのも、今日で最後か、 と水内は感慨にふけった。 ドアが開いた。優が笑顔で出てきた。後ろには杉本医師がやはり笑顔。 「水内さん!見て!」 と言って、優がまるめた紙を水内の目の前で広げてみせた。 「はいっ!卒業証書っ!」 「卒業・・・証書?」 なるほど、見てみると、たしかに、今日の年月日と優の名前が縦書きで書かれ、 「右の者、全課程を修了したことを証します」 と記され、杉本医師の署名が入っていた。なかなかドクターも芸が細かい。 「そうかぁ、よかったなぁ〜、優ちゃん!」 水内が祝福すると、優は、腰に手をあて、エヘンといばったポーズでおどけてみせた。 「優ちゃん、きっとあなたなら大丈夫よ。これからも、あなたらしく、ね」 と杉本医師が言うと、 「はい!先生!ありがとうございます!」 優はハキハキとした調子で答え、 「ときどき、遊びに来てもいいですか?」 と、医師にきいた。 「ええ、もちろんよ。いつでも遊びに来てね」 杉本医師は満足そうに笑って答えた。 (がんばってよ、じゃなくて、あなたらしく・・・か・・・) 思えば、ここ数ヶ月間、優と一緒にこの病院に通って、俺自身もいろいろと勉強させて もらった。その日々を振り返ると、優に対して自分が何をしてやれたか、心もとない気もする。 たしかに、アンドロイドの「心を開いて」みたいと思った。かわいそうなアンドロイド のために「癒して」やりたいと思った。が、こうして今、ここ数ヶ月の優との日々を思うと、 (心を開かせてもらったのも癒されたのも、俺のほうかもしれないな) と、水内は思った。 「水内、開発室長が呼んでたよ」 と、同僚に言われ、水内は室長の部屋をノックした。 「失礼します」 と、水内が入室すると、室長は、 「いやぁ、よかったなあ、水内君」 と笑いながら言った。 「はい?」 水内が何のことかわからずにいると、 「前に公募した、アメリカの公費研究の件ね、君の論文が評価されて、君はメンバーに選 抜されたよ。やったな!」 と言って、水内に握手を求めてきた。 「1年間、向こうで思う存分に研究してくるといい。まあ、相当に忙しくて、帰ってくる ヒマもないぐらいだろうが、戻ってきたときのポストはいいぞ〜。選ばれて良かったな! 私がちゃんと君を推薦しといたからな!」 最後は恩着せがましく告げた。 「はい。ありがとうございます」 もちろん嬉しくないはずはない。前から希望していたことだ。帰国後のポストが、とい う条件もいいが、何より自分の提出した論文が評価されたことは喜ばしいことだ。 (しかし・・・優はどうなる?) 自分がアメリカに一年間行く、と決まったとき、頭をよぎったのは、自分の両親や友人 のことではなく、優のことだった。 (あいつは・・・もうすぐ群馬に帰ることになってる。それまでに・・・それまでに、言 うことは言わなくっちゃな) 言うことは言う?何を?どうやって言う? 女性との交際経験なしに25年余り、相手が人間であれアンドロイドであれ、「告白」 などという芸当は挑んだことすらない。 (まあ、とりあえず、今週末、じっくりと作戦を練るか) 既に、だいぶ元気を取り戻した優には、もう泊まり込みの「添い寝」は必要ない。 ここしばらくは、いつも水内は夜には帰宅していた。 (ああ、そうだ。ちょっと実家に帰って、アメリカ行きのことも言っておくか) 結局、その週末、水内は名古屋の実家に帰省した。 週明けの月曜、水内がいつものように研究所に出勤すると、優の姿はなかった。 「河野さん、優は・・・じゃなくって、HMX−12の0276はどうしたんですか?」 「ああ、帰ったよ」 と、同僚が答える。 「か、帰った!?」 水内が血相を変えて言うと、同僚は、 「ああ、今週の金曜にモニターが引き取りに来るってことだったんだが、先方のご家庭の 都合で、昨日じゃなきゃ東京に来られなかったらしいんだ。それで」 「な、何で、俺に連絡してくれなかったんですかっ!」 「いや・・・だって、君は名古屋に帰ってただろ。それに、本当に急だったから」 水内は悄然とした。 「あいつ・・・何か、俺のこと言ってませんでしたか」 「ああ。水内さんは?って言うから、今いないって言ったら、残念がってたぞ」 「残念がってた・・・って、それだけですか?」 水内が詰問調で言うと、相手は怪訝そうな顔をして、 「それだけって・・・他に何かあるのか?」 と言った。 「いえ、別に・・・」 水内は肩を落とした。 「あいつ・・・喜んでたでしょうね。やっと家に帰れるっていうんで」 「そりゃあそうだろうな」 同僚は興味なさそうに答えて、ガムを吐き出した。 「す・・・すいません。ちょっとトイレに行ってきます」 慌てて席を立って走った水内を、同僚は、 「何だ、あいつ」 という顔で見送って、またパソコンに向き直った。 一年ぶりに踏む日本の土は懐かしかった。 まずは公費の研修という性格上、研究所に行って、報告の儀式をしなければならない。 それから、HM開発室のメンバーが慰労と歓迎をかねて、一席もうけてくれた。 「いやぁ、水内君、ご苦労だったな」 開発室長は上機嫌だった。 「まずは、明日からしばらくはゆっくりと疲れをとるといい」 「はい、ありがとうございます」 隣に座った同僚が、 「名古屋にでも帰って、のんびりしてきて、来週また改めて報告してくれればいいから」 と言うと、 「そうですね・・・でも、その前にちょっと行くところがあるんです」 と水内は言った。 「へえ。どこだい。まさか彼女のところ?おまえに限って、そんなことはないだろうなあ」 同僚は笑ったが、水内はどこに行くとは答えなかった。 優ちゃん、本当に久しぶり。 元気でしたか。 僕が会えない間に君が帰ってしまって、僕は本当に残念でした。 うん、まずはこんな書き出しかな、と水内は自分のヘタな便箋の文字を眺めた。どうも 手書きの文字というのは慣れないだけに、なかなかうまく書けないし、文も浮かんでこな い。 僕は、仕事でアメリカに行ってました。 忙しくて、ろくに連絡もできず、ごめんね。 向こうに行って研究している間も、思うのは君のことばかりでした。 君が元気にやっているか。またつらい目にあっていないか。 いつも心配ばかりしていました。 研修から帰ったら、研修明けの非番がしばらく続くから、優のところに真っ先に行こう! それはアメリカにいたときからずっと決めていた予定だった。 そして、優に会ったら、自分の気持ちを正直に告げよう。そう決めたものの、いかなる 相手にも愛の告白など経験のない水内にとって、意中の少女に直接、自分の思いを告げる ということは、アンドロイドの研究開発などよりはるかに困難な事業だった。 悩んだ挙げ句、手紙ならば、と思い、手紙を書くことにした。 いつか、君が、たとえまたバラバラに壊れてしまっても、 きっと僕が修理してあげる。 一生、君のいちばん近くでメンテナンスさせてください。 僕を君専属の整備マンにしてください。 君のおなかの中は、本当にきれいです。 ・・・変か、これじゃ。 水内は何度も便箋を破り、悪戦苦闘した。 結局、できあがった手紙は、やけに婉曲な、読む人によっては、「愛の告白」とは受け 取れなさそうな当たり障りない代物に仕上がった。 しかし、それでも、水内にとって、精一杯の「勇気」だった。 (よし、これを花束と一緒に優に渡そう。その場で読んでもらおう) 段取りは決めたが、やはり優のリアクションが心配だった。 こうきたらああいう、あ あきたらこういう・・・深夜のシミュレーションが続いた。 水内は群馬県に足を踏み入れたのははじめてだった。 東京から新幹線で約1時間、高崎からバスで十数分。あらかじめメモしてきた通りの所 在地に、木戸バネ製作所は当然のごとくあった。 (意外と小さい工場なんだな) と、水内は思った。 (落ちついて。何もやましいことはない。俺は研究所の人間なんだから。卑屈になること は何もない) 自分に言い聞かせて、工場の扉を開けた。 「ごめんくださ〜い」 中では何人もの工員が黙々と作業をしている。 「はい、何でしょうか」 と言って出てきたのは、事務員らしき女性である。 「え〜と・・・木戸・・・優さんのご両親様はお見えでしょうか」 「はあ、私が母ですが」 「あっ、お母さまでしたか。失礼しましたっ!」 「あの・・・どちら様ですか?」 「はいっ。私、東京の先端科学研究所本部の、水内と申します」 水内が緊張しながら自分の名を告げると、 「まあ、水内さんですか」 と、ようやく笑顔のリアクションがあった。 「私、優の母親の、木戸亜沙子です」 「はじめまして」 水内は深々と頭を下げた。 「優は、こっちに戻ってきたとき、よく水内さんのことを言ってたんですよ。いい人だ、 いい人だって」 亜沙子の言葉は嘘とも思えない響きだったので、水内はすっかり気を良くした。こっち に戻ってきたとき、ということは、最近は水内のことは言っていないのではないか、とは 思わなかった。 「えーと。優さんはお見えですか」 「はい。今、アルバイトで厩舎のほうに行ってるんですよ」 厩舎・・・いつも優が話していた厩舎か。 「ここから、近いんですよ」 と言って、亜沙子が道順を教えてくれた。 人工約25万の都市と言っても、住宅街から数分歩けば、豊かな自然が広がっていた。 水内の実家は行けども行けども建物ばかりの都会だったので、新鮮な光景である。 厩舎は、今は馬が少ないのか、どことなく人気(ひとけ)のない雰囲気だった。 昨晩、半徹夜して書いた手紙を入れた花束を抱え、水内は緊張して厩務員室の建物をノ ックした。が、中からは何の返事もない。 (おかしいなあ。今日は休みかなあ。でも、お母さんは、たしかに厩舎に行ったって言っ てたもんなあ) と思ってドアノブを回すと、ドアはあっさり開いた。しかし、やはり中には誰もいなかっ た。 (どういうことだろう) と思って、花束を持ったまま、建物を出た。 (表にいるのかな) 水内が建物を出ると、裏手にコースがあるようだった。競走馬の育成所だから、馬小屋 だけでなく、練習場があるということだろう。 (あ・・・) 優がいた。 が、しかし、優は一人ではなかった。 白いつなぎの作業服を着た優の傍らには、やはり作業着を着た若い男がいる。もちろん、 優がよく言っていた「太郎さん」に違いない。いかにも動物と接する仕事の人間らしく、 無造作ながらも、さわやかそうな「イケメン」と映る。 水内は、メガネを持ち上げて、遠目から二人を見た。 優は、本当に幸せそうだった。安心しきった笑顔である。あの独房のような部屋で最初 に水内が会ったときとは、まるで別人、いや、別ロボのように見える。 優と「太郎さん」が何を話しているかはわからない。 しかし、現実に二人は「じゃれあって」いる。 「太郎さん」が、「こいつぅ」といった風に優の額を軽くこづくと、優は、首を外して ふくれっ面をして見せた。そして、二人で笑いあっていた。 水内は、二人に気づかれないようにそっと厩舎の建物に戻り、手紙だけ抜き取って、テ ーブルに花束を置き、そのまま厩舎をあとにした。 「ああ、どうも。どうでしたか。優には会えましたか」 亜沙子が事務作業の手を休め、水内に言った。 「娘さん、お元気そうで何よりですね。それに、素敵な彼氏もいらっしゃるようで、本当 によかった」 と、引きつった顔で言う水内の声は、さっきより2オクターブほど不自然に高い。亜沙子 は、その声がかすれているようにも聞こえた。 「あなた、もしかして、優のこと・・・」 亜沙子が言いかけると、水内は、急にわざとらしく背筋をのばし、 「いえ。私はただのエンジニアです。私の担当した機種が無事に故障せずに稼働している のを確認して、安心しました。では、失礼します」 と言って、きびすを返した。 亜沙子が水内と会ったのは、それが最後だった。