また今日も日が暮れようとしている。
今日は一日、遠出の出仕事だった。現場で与一たち職人に、軽くねぎらいの酒がふるまわ
れた。与一たちは、すっかり気分のいい酔い心地になって、
「じゃ、親方、今日はこれで失礼さしていただきやす」
と、陽気に挨拶をかわした。
「おう。明日も、また同じ刻にな」
親方たちと別れて、与一は京橋因幡町(いなばちょう)の裏長屋に帰宅の足を向けた。今
日の仕事場だった本所松坂町の旗本屋敷からはやや遠いが、健脚の与一は、道具箱をかつ
ぎ、早足で小気味よく歩いた。
静かに日が暮れ、与一がちょうど本石町の時の鐘の近くを通り過ぎた頃に暮れ六つの鐘が
聞こえた。

(ふぅ〜。やれやれ。さって、今夜はどうするかな。また、平公のやつでも誘って、丸越
でおっかけのもう一杯、ひっかけてくっか)
そんなことを思いながら、いつも通りに長屋の木戸をくぐり、自分の部屋のたてつけの悪
い障子戸を開いた与一は、
「あれっ!!??」
一瞬、わが目を疑った。
「おや。すまねえ。へへっ。うちを間違(まちげ)えたらしい。ちょいと、ごめんなすっ
て」

 照れ笑いを浮かべながらもう一度、表に出る。
 しかし、おかしい。どう考えても、ここが自分の部屋だ。
「ねえ、おかみさん。あのう、たしかにここがあっしのうちですよね」
 傍らで七輪のイワシを扇いでいる隣室の茅島のご内儀に聞いてみた。
「当たり前じゃないのサ。何、言ってるんですか。熱でもあるんじゃないのかい」
 茅島のご内儀は鷹揚に笑った。浪人のご主人の仏頂面とは対照的な奥さんだ。
「そう、ですよねぇ。いや、そりゃあね。俺もわかっちゃいるんだけど・・・」
 首をかしげつつ、深呼吸して、与一はもう一度、自分の部屋の引き戸を開く。
すると、やはり、いる。
 今の娘だ。年の頃は与一より少し若そうだ。ということは、数えで十九か二十歳ぐらい
だろうか。生娘(きむすめ)なのだろう、まだ眉を落としていない。小ざっぱりと島田髷
げを結い、淡い浅黄色の木綿に藤色の博多帯を結んで、畳の真ん中にちょこんと行儀良く
座っている。
 まるで人形のようだ。瞬きもせず、静かに与一のほうを見つめている。

「ええ〜と、その、何て言ったらいいのかな。娘さんよぉ。あの、ここは俺のうちなんだ
けどよぉ」
 予想外の出来事に、与一は思わずどぎまぎしながら娘に言った。ことによると、ちょっ
と頭のおかしい娘だったりしたらいけない。落ち着いてゆっくりと話さねば。
 すると、娘は
「はい。わかっております。与一さん」
と、落ち着いた声で与一の名を呼んだ。どうして俺の名を知ってるんだ?と、与一が状況
を掴めずにいると、
「お約束の通り、今日から私があなた様にお仕えいたします」
と、透き通るような声でよどみなく言って、はじめて笑顔を見せた。笑うと、まだお歯黒
もしていない歯がキラリと光った。
 与一は、呆然と口を開けて、あっけにとられているしかない。何だよ、いったい約束っ
て・・・
「まだ、おわかりになりませんか」
 眉じりを下げて、少し悲しそうに娘が言う。
「いや・・・その・・・何のことだか、俺にはさっぱり・・・」
 しどろもどろの与一がやっと言うと、娘が正座したまま与一のほうにするすると滑りよ
り、耳打ちした。
「ほら、あの立ち待ち月の晩に、須田町の堀割りで・・・」
 あ。あのときの!
 与一は驚愕した。
 いや、たしかに覚えがある。覚えがあるが、あまりにも不思議な出来事だったので、て
っきり夢だとばかり思っていた。

 十日ほど前のことだ。
 神田練塀町(ねいべいちょう)でボヤ騒ぎのあったお店(たな)の修繕に行った帰り、
向こうの旦那に是非と言われ、親方たちと一緒にしたたか酔って、それから一人で因幡町
に帰ろうとしていた帰り道のことだった。
 もう子(ね)の刻に近い夜中だったに違いない。周りに人通りもなく、まるで幽霊でも
出そうにひんやりと夜風が涼しい晩だった。
「た〜すけて〜」
 珍妙な声が聞こえた。酔っていた与一はぼんやりと聞き流してしまったが、何度も何度
も「た〜すけて〜」
という声が聞こえるので、しかたなく声のほうに行ってみると、堀割りで人が溺れている
ようだった。たいして深い堀でもないので、大人なら背がたつはずであったが、声の高さ
からすると、子どもかもしれない。
(やれやれ、厄介な・・・)
と思いつつ、与一は、自ら堀に飛び込んで、その溺れる者を救い上げてやった。

「ふぅぅ〜。チベタイ!」
 初夏とは言え、夜更けである。突然、水に飛び込んで冷たくないわけがない。堀からあ
がった与一は、しばらくの間は、相手のほうもかえりみずに、ただ震えていた。
「どこの、どなたかは、存じま、せぬが、ありが、とう存じ、ます」
 妙な区切りでブツ切りのようにしゃべる高い声の主を振り返ると、何やら異様な姿をし
ている。
 身の丈はせいぜい四尺ぐらいしかなさそうだ。子どもなのか大人なのか。目のところを
何か黒っぽいビードロのようなもので隠しており、表情がよくわからない。
 それより、妙だったのは、その者の身なりだった。体にぴったりとくっついた銀色の、
まったく見たこともない生地でできた着物を身につけている。薄い月あかりを浴びて怪し
い輝きを放ち、まるで与一の目をくらますかのようだ。
 おまけに頭髪は小判のように光る色で、月代(さかやき)も剃っていないし、髷も結っ
ていない。これが噂に聞いた異狄(いてき)ってやつだろうか。

「いや・・・別に礼なんていいんだよ。困った時ぁ、お互いさまだからよう」
 鼻水をすすりながら与一が言うと、その者は、
「本当に、ありがとう、ございます。この星の、水中、生物を、採集しに、来た、のです
が、あやうく、こんなところで、死んで、しまう、ところで、した」
「ああ。そうかい。よくぁわからねぇけど、まあ、無事でよかったな。そいじゃ、な。俺
は帰(けえ)るからな。お前(めえ)も、今度は気ぃつけろよ」
 道具箱をかついで与一が帰ろうとすると、正体不明の相手は、
「待って、ください。お礼も、せずに、あなたを、お帰し、するわけには、いきま、せん」
と、また切れ切れの口調で言った。
「いや。だってよう。別に俺ぁ、何も礼がほしくって、お前(めえ)さんを助けたわけじ
ゃねえしよう。こんなことぐれえで何か貰っちまったんじゃ、かえって冥利(みょうり)
が悪くって、いけねえや」
 与一が言うと、その者は、天を仰いで、
「わたしは、この、星に、調査に、来て、あちこちの、土地を、見て、きました。この、
島は、この、星の、どこよりも、自然が、美し、かった。しかし、人の、心も、この、島
が、いちばん、美しい」
と、独り言のように、またブツブツとつぶやいた。
「まあ、そういうことだからよ。おまえさんも、早く一座に返って、座長さんを安心さし
てやるんだな」
 与一は、その相手を見世物小屋一座の芸人とでも思ったようだ。

「何か、お礼は。・・・そうだ。あなた、女、すき、ですよ、ね」
「女だぁ?おう、そりゃあ、まあ、男で女が嫌いってぇやつぁ、あまりいねえやな」
 与一は正直に答える。
「やはり、そう、ですね。他の、土地でも、みんな、そう、でした。この、星の、男は、
みんな、女が、すき」
 金属のような声で、笑みを浮かべたその者の表情は、どこか薄気味悪かった。
「何言ってんだ、おめえ?」
「わかり、ました。あなたへの、贈り物は、女、に決めました。お住まい、は、どちら、
ですか」
「どちらって・・・因幡町の長兵衛さんの長屋で、大工の与一って言やぁわかるよ」
「そう、ですか。ならば、よい。私、もう、行く」
と、謎の相手は、不意にまた天を仰ぎ、
「モナペシュラグ、ペテペテヨヒ」
と、得体ののしれない呪文を唱えた。その瞬間、
「あああっ!??」
 与一は腰を抜かしそうになった。いや、本当に腰を抜かした。
 みかんのように黄色く光る金属のかたまりが音もなく空から降りてきたのだ。大きいの
何の。畳にして何畳ぶんの大きさになることやら。
「さよう、なら。ほんとうに、この島が、いちばん、すてき、でした」
 謎の男は、あいかわらず切れ切れの声で言って、
「願わくば、この島の、人たちが、いつまでも、この、美しい、自然と、美しい、心を持
ち、続けていて、くれま、すように」
と、また独り言のようにつぶやいた。その金属のかたまりに吸い込まれるように入ってい
くと、そのまま、あっというまに天空へと浮かび上がって消えて行ってしまった。
 与一は、あんぐりと口を開けて空を見上げた。ただ呆然と、ほうけたように尻もちをつ
いたままの姿勢で。

 あまりに不思議なできごとだったから、てっきり酔いすぎて悪い夢を見たのか、それと
も狐にばかされたのかと思っていた。あるいは、お稲荷様の霊験でも見たのかもしれない。
 が、そっと手をのばし、娘の頬に触れてみると、
(うん、たしかに、これは・・・)
と、目の前の現実を信じるしかない。やわらかな頬をつままれた娘は、少し嬉しそうには
にかんだ。
(シッポは、ねえよな)
 娘の尻のほうに目をやったが、狐のシッポも狸のシッポも生えてはいないようだ。
「つまり、お前は、あの変な男のところから来たってわけか」
「はい。与一さんのために一生懸命お世話するように、いいつかっております」
と、にっこり笑って、大げさに三つ指をついた。

(参ったな、これじゃあまるで、押しかけ女房・・・)
 娘の純真そうな瞳を見ていると、あまり強く言うわけにもいかないだろうという気がし
てくるが、与一は毅然とした顔で、
「いいか。俺ぁ、まだ半人前(めえ)で、女房だの女中だのっていうような分際じゃあね
えんだよ。それに、お前(めえ)だって、まだ見たところ、数えて十九か二十歳(はたち)
ぐれえなんだろう。親御さんが心配してるよ。悪いこたぁ言わねえから、早く帰(けえ)
んな」
と、諭した。すると、娘は、
「親なんて、私にはいません。帰る場所なんて・・・一人じゃ帰れません。私が言われた
のは、ただ、あなたにお仕えするようにということだけです」
と、意外にきかん気なことを言った。
「するってぇと、何かい。お前(めえ)は、ずっと後生、俺のところにいる気かい」
「それしかプログラミングされていませんから」
意味不明のことを言う娘をもてあました与一は、
「しょうがねえなぁ。まあ、ともかく今夜はここに泊まりな。明日、また考(かんげ)え
るからよ」
と、酒のせいもあって眠くなった与一は無責任にそう言うと、そのまま畳の上に寝転がっ
て、いびきを立てた。

遠くで明け六つの鐘が聞こえた。与一は軽い疲れを感じながら目覚めた。
そうだ、そういえば、昨夜は、親方たちと飲んでから、そのまま布団もしかねえで、とっ
とと寝ちまったんだった。
あれ、たしか、昨夜は・・・

何かうまそうなにおいが漂ってきた。
「おはようございます、与一さん!」
昨夜の娘だ。
なるほど、夢ではなかったらしい。
(おや、これは・・・)
与一は驚いた。土間のカマドなど、ひとり者の与一はろくに使ったこともないから、蜘蛛
の巣が張っていたはずだ。火種もなかった。古くなったノミやゲンノウを無造作に積み上
げて、まるでガラクタ置き場になっていたはずだ。
なのにどうだ。今朝はすっかり片づいて、つやが出るほどに新品さながらに光っている。
「もうすぐ、ごはん炊けますからね。もうちょっとだけ待っててくださいね」
昨夜の娘が嬉しそうにテキパキと狭い台所を動き回りながら言う。包丁、カマドの吹き竹、
さいばし、それに米とおこうこ。いつのまに揃えたんだろう。

「おう、与一つぁん。今朝は・・・・・・あれ?あれあれあれっ?」
隣の部屋の平太が与一の部屋を覗いて、目をむいた。
平太は盤台をつけた天秤棒をかついで、これから日本橋本舟町(ほんふなちょう)の魚河
岸に仕入れに向かうところらしい。
「あ。おはようございます、お隣さん。いつも与一さんがお世話になっております」
たすきがけをしたまま、娘がにっこりと平太に頭を下げた。
「お、おい。与一つぁん、こいつぁ、一体(いってえ)・・・」
平太の当然の問いかけに、与一は嘆息した。どうしたもこうしたも・・・こっちが聞きて
いやい。

朝食は、炊きたての白米に、たくあんと白菜のおこうこ、それにしじみの味噌汁だった。
「すみません。せっかくだから、何かお魚でもと思ったんですけど、あいにく支度がなく
って・・・」
と、少し寂しそうにうなだれていたが、ともかく家で朝食を食べるなどという習慣から遠
ざかっていた与一とすれば、文句を言う場面ではない。娘の不審な素性を追及することも
忘れ、
「う・・・うまい。うまい!」
と、ひたすらあごを動かすことに熱中した。
「よかった・・・よかったですぅ!」
胸の前で手を合わせ、心底から嬉しそうに笑う娘を見て、与一はふと気づいた。
「あれ?そういえば、お前(めえ)の分がねえみてえだけどよ、お前は食わねえのかい」
「はい。私はいいんです。こういうものは食べられませんから」
「こういうものって、お前、自分でこさえといて、こういうものって言い方ぁねえだろう
よ。遠慮なんかしねえで、お前も食いなよ。な」
久々の炊きたての朝食にすっかり機嫌をよくした与一が笑いながら言うと、娘は、今度は
悲しそうな顔になって、
「はい・・・すいません。できたら、私もそうしたいんですが・・・」
と、不意に下を向いて、まるで泣き出しそうな顔になったので、与一は慌てて、
「あ。いやいや、いいんだ、いいんだ。俺がいちゃ、きまりが悪くって食えねえんだった
ら、いいんだ。俺ぁ、もうすぐ出かけるから、その後、ゆっくり食いな。で、食ったら、
片づけなんざぁどうでもいいから、早くお父っつぁんとおっ母さんのところに帰(けえ)
るんだな」
と、的はずれなことを言って、また、上機嫌で咀嚼を繰り返した。

「んじゃ、行って来っからよ」
道具箱を肩に担いで、与一が出かけようとすると、娘は
「与一さん、今夜は何時(なんどき)頃のお帰りになりますか。晩のお菜(さい)は、何
かお造りでもあつらえておきましょうか」
と、まるで、いっぱしのかみさんのようなことを言う。
(やっぱり、ちょっとここが変な娘なのかな)
と、与一は自分の頭を指さしたりはせず、一人、心の中でつぶやくと、
「いいか。ちゃんと家に帰(けえ)るんだぞ。少しの間なら、いてもいいけど、あんまり
人目につかねえようにな」
と言って、足早に仕事場に向かった。

仕事場は昨日と同じ、本所松坂町の旗本屋敷だ。
トン、カン。トン、カン。
屋根の上で与一たちの打つ槌(つち)の音が軽快に響いた。
「おーし。そろそろ一服するか」
親方の声をしおに、与一も屋根から降りた。だいたい、大工という仕事は、働きにきてい
るんだか休みにきているんだか曖昧なぐらいに休憩時間が多い稼業なのだ。
「あーあ。何かスカーッとするおもしれえことでもねえかなーっ」
先輩職人の喜助がキセルを片手にのびをしながら言った。
「おもしろすぎることも、困りものでござんすよ」
とは与一は言わなかったが、そんなことを思いながら、空を見上げ、今後のことを考えた。
あの娘は結局、何者なんだろう。そして、あの変な小男は。・・・
どこかから、夏の訪れを告げる金魚売りの声が聞こえた。
梅雨の晴れ間の空は、どこまでも突き抜けるような青だった。屋根に立てば、海も、遠く
房総の山々も、駿河の富士山までも、くっきりと見える。まだ、人間が人間の力で自然環
境を傷つけるすべなど、知らなかった頃の話である。

「おう、与一。飲みに行くぞ」
と、親方に言われれば、今まで断ったことは一度もなかった与一だが、今日だけは丁重に
辞退し、因幡町の長屋に急いだ。少しばかり、いつもより足取りが軽く、そしてせかせか
としていることには気づいていない。
おそるおそる長屋の木戸をくぐって自分の部屋の前にくると、夕餉の支度の煙が立ってい
る。

「おう、何だよぉ、まだいたのか、お前ぇは」
と、口ではうんざりしたようなことを言いながら障子戸を開けた与一だったが、内心はホ
ッとしていたというから、このあたり、男心というものはわかりやすい。
「おかえりなさい、与一さん」
カマドの吹き竹から口を離して、娘が弾んだ声で言った。
その屈託のない笑顔にのまれたように、与一は
「まあ、お前ぇも、それなりの事情があるんだろうからな。まあ、いい。とりあえず、し
ばらくはここにいろ、な」
と、まんざらでもない声で言う。
「はい。もちろんです。ずっと一緒ですよ。与一さん」
ことによると、この娘は本当にお稲荷さんのお使いかもしれねえ。だったら、邪険にもで
きめえ。罰が当たらあ。と、これは、むしろ与一自身のための口実である。

「ああ、そうだ。お前ぇの名はまだ聞いてなかったんだったな。お前ぇのことは何て呼ん
だらいいんだい?」
上がりかまちに腰掛けて、わらじの紐をほどきながら問うと、娘は、
「はい!」
と、浮き立つような身のこなしで、急にカマドのそばから起きあがって畳に上がり、たも
とから紙を出して、さらさらとしたためる。筆を持たず、まるで指先で書いているかのよ
うに見えるが、与一の位置からでは確認はできない。

「はいっ」
と、出された半紙には
「凛」
と書かれていた。上品な草書で、なかなかの達筆と言ってよい。
「凛(りん)・・・お凛ちゃんか。いい名だな」
与一が言うと、娘は、
「はいっ。一生懸命考えたんです!」
と、嬉しそうに答えた。
“考えた”って、どういうことだよ、と野暮なことはいちいち言わず、
「ところで、今夜のまかないは何だい」
と、与一はお凛に問うた。
お凛は、人差し指を口にあて、
「それは、できてのお楽しみですよ」
と、いたずらっぽく笑うと、
「さ。それより、与一さん。今日は暑かったから、汗かいたでしょ。お湯でもつかってき
てくださいな」
と、与一を湯に送り出し、また嬉しそうに台所仕事を続けた。

与一が湯屋から帰ってくると、すっかり夕餉の支度が調(ととの)っていた。
お菜(さい)は、揚げ出し豆腐に鰹のたたき、あさりの味噌汁に茄子の浅漬けだった。古
ぼけていた膳がきれいに磨かれ、その上にところせましと与一の好物ばかりが並んでいる。
「ああ、こりゃあ豪儀なこったなあ。ありがてえ、ありがてえ」
感嘆していると、
「与一さん、お燗のほうも、もうできましたからね」
と、お凛がぬるめの燗にしたチロリを出してきて、猪口(ちょこ)についでくれた。
「ふうーっ!うまいっ!」
仕事帰り、湯上がりの早速の一杯に、思わず笑みがこぼれる。

「すごいんですね。私、驚きましたよ。晩のお菜(さい)の品を買いに行こうと思って、
お店はどこか、お隣のおかみさんに聞いたら、笑われちゃいましたよ」
たすきを外しながら、お凛は、うきうきとした調子でしきりに話しかけてくる。
「この町って、何でも売りに来るんですね。お魚、青物、お豆腐、たばこ、お菓子、金魚、
花の種。買い物になんか出かける必要、ないじゃないですか」
何を当たり前のことに感動しているんだろう、と、与一は酒と肴に夢中になりながら、お
凛の話を聞いていた。田舎の出身で、都会の生活が珍しいのかな。

与一がお凛の手料理に舌鼓を打っている間、お凛は相変わらず、何も飲まないし、何も食
べない。
しつこいかと思いつつ、与一が食べるように促しても、首を振って遠慮するばかりである。
「私、アンドロイドですから」
行灯(あんどん)?井戸?何のことやら、与一にはまるでわからない。
(人前じゃ食えねえたちなのかな。稲荷大明神のお使いだったら、やっぱりいなり寿司が
好物かな。明日あたり、買ってきてやるか)
と、相変わらず与一の想像は的はずれであった。

「なあ、与一つぁん。与一つぁんよお」
隣の平太の声だ。
「おう、どうしたい、平公」
と、与一が返事をする前に平太は障子戸を開け、お凛のほうをチラチラと見ながら会釈す
ると、
「あのよう、これ、売れ残りで悪いんだけど、よかったら、食ってくれや」
と、サヨリとアジを一匹ずつ、ぽんと投げ出した。
「ああ、そうかい。悪いなあ。でも、もうこんなにあるからなあ」
与一が頭をかきながら言ったが、平太は何も言わない。
ン?
与一が平太の目線を追うと、平太はお凛に釘づけである。
「おいっ、平公。何をじろじろ見てやんでぃ」
やや乱暴な口調で与一が言ったから、平太は
「あ。いやいや。何でもねえんだ。おう、そいじゃ、またな」
と、ほうほうのていで帰って行った。

やれやれ、まったく。ちょっと長屋に若(わけ)え娘がいると、すぐこれだ。油断もすき
もあったもんじゃねえ。
与一がまた膳部に向き直ろうとすると、今度は縁側のほうから、
「御免。与一どの。いささか無聊(ぶりょう)なもので、いかがでござる、一局」
将棋盤を手に、普段は無愛想な逆隣りの浪人・茅島がやってきた。茅島の目線の先には、
やはりお凛。
・・・まったく、もう。落ち着いて飯も食えねえや。茅島さん、怖いおかみさんにどやさ
れたって、俺ぁ知らねえよ。
縁側の軒下で、釣り忍(しのぶ)の風鈴が軽やかに鳴った。蚊遣(や)りの煙がゆらゆら
と宵闇に漂う。空は一面の天の川。

 たしかに不思議な娘ではある。お凛は、与一の見ている限り、一度だって飯は食わない。
が、別に体調の変化の様子はないようだ。それだけではない。湯にだって一度も行かない。
が、そもそも汗ひとつかいている様子がないし、実際、まったく汚れていない。
 最初は素性のわからないお凛を警戒する気持ちもなくはなかったのだが、しばらく暮ら
しているうちに、もともと深くものごとを考えないたちの与一はすっかりどうでもよくな
って、今の快適な暮らしに満足していた。
 朝は味噌汁の香りとともに目覚め、夜はしっかりと燗をつけて、手づくりの飯を食わせ
てもらえる。散らかり放題だった部屋の中も、すっかり片づいて、新築さながらだ。
 というわけで、人別帖に書き入れずとも、婚姻の宴などもせずとも、既に長屋では似合
いの若夫婦として周囲の羨望を受ける世帯になっていた。
 頑固者の大家の長兵衛も
「与一よ。お凛ちゃんは、お前にはできすぎたいい娘さんだからな。お前もしっかり働い
て、早く一人前の大工になって、もっともっとお凛ちゃんを楽さしてやるんだな」
と、顔を合わせるたびに説教してくる。
 んなこたぁわかってらい。と思いつつ、やはり悪い気はしなかった。自分のような半人
前の職人には、できすぎた嫁だということは、与一が誰よりも自覚していたのだから。

 少し経つと、家事にも慣れてきたので、昼間の時間がもったいないと、お凛は外で働く
ことを希望した。
 何しろ大消費都市である。女の働き口だって、そば屋や居酒屋のお給仕やら、大店(お
おだな)や大名屋敷の奥向きの女中奉公やら、探せばいくらでもあった。実際、いわゆる
専業主婦の女など、庶民の階層にはほとんどいないと言っていい。
 顔の広い大家の長兵衛が口をきいてくれて、お凛は昼間は、日本橋通り町のそば屋のお
給仕をすることになった。朝、与一が出かけた後、お凛も出勤し、夕方まで働く。

「行ってまいります」
 裏路地の井戸前で隣室の浪人、茅島と顔を合わせると、お凛はハキハキした調子で明る
く挨拶した。
「ああ、行ってらっしゃい」
 無愛想な茅島も、お凛にだけは愛想よく、笑顔で答えた。お凛がしゃきしゃきと歩いて
行った方向をいつまでも眺め、目を細めていた。
「あんた!どこ見てんのサ!ぼんやり突っ立ってないで、今日中にお納めする日傘の残り、
とっとと貼っちまいな!!」
 おかみさんが容赦なく、茅島の耳を引っ張って怒鳴った。

 お凛が住みついてふた月ほどしてからのある昼下がり。親方が与一に意外なことを言っ
た。
「なあ、与一よ」
 親方がキセルに火をつけながら、言いにくそうに言った。
「実はな、与一。駿河町の伊勢徳さんのところでな」
 伊勢徳こと伊勢屋徳右衛門商店は、いつも親方や与一が修繕などで出入りしている木綿
問屋の大店(おおだな)だ。お得意さん、と言っていい。
「こないだ、あちらの旦那に言われたんだ。もし、お前(めえ) さえよければ、 なんだ
が・・・」
 キセルの火種を転がしながら、親方が言う。
「あちらの末のお嬢さんで、ちょうど今年二十歳になるお軽さん。お前も知ってるだろ」
 ああ、あの娘さんか。いかにも良家の育ちらしく、奔放ながらも、しつけの良さそうな
娘だ。悪い雰囲気の娘さんではない。

「あちらの旦那さんが、いつもお前の仕事ぶりを見て、えらく気に入られてな。もしお前
さえよかったら、将来的には婿養子という形を考えて、まずはお軽さんとつきあってみち
ゃくれねえかっておっしゃるんだ」
 何と。そんなご指名か。
「し、しかしですよ、親方。あっしはもう・・・」
「ああ、わかってるよ、お凛ちゃんのことだろ。そりゃ、わかってる。あの娘はいい娘だ。
気だてはいいし、器量もいいし、な」
 キセルを強く吸い込んで、親方が言う。
「でもな、まだ正式に婚礼をしたわけじゃあねえんだろ」
 それは、そうだ。人別帖に書き入れたくても、どうやったらいいものか、わからない。
何しろ、どこの誰かということさえよくわからない「稲荷様のお使い」なんだから。

「考ぇてもみろ、伊勢徳さんと言やあ、そりゃあ、たいそうなご身代(しんでえ)だ。も
ちろん、総領息子さんはいなさるから、本店のご主人ってわけにはいかねえだろうが、ゆ
くゆく、支店の一つでも持たしてもらうだけでも、大工なんかよりゃあ、よっぽど実入り
がいい」
「で・・・でも、親方。あっしは一人前の大工になるために、こうして・・・」
「ああ、もちろんわかってる。たとえば、の話だ。俺だって、お前を手放したかぁねえよ」
 親方は真顔で与一の顔を見据えた。
「だからな、ちょっと試しに会ってみてくれるだけでもいいんだ。ただ、もし、あちらさ
んと会ってみて、本当にお互え気に入れば、それはそれで悪い話じゃねえ。そう言いたか
っただけよ」
と、涼しい顔で言った。
「そりゃあ、お前には、もっと精進して一人前の大工になってもらいてぇし、お凛ちゃん
を幸せにしてやったら、それがいちばんいいと俺も思う。でも、ただ一度だけ会ってやっ
てくれりゃ、それで俺の顔が立つんだ。な、頼むよ」

 親方にそう言われると、従わないわけにはいかなかった。両親を早くになくした与一が
ここまでになれたのも、親方のおかげなのだから。
「わかりやした」
と、力なくうなずいて、日取りの調整をとった。
 お凛に何て言おう。いや、黙っている他ないか。世の中にゃ、知らねえほうがいいこと
もあるんだし。なあに、いっぺんだけ会ってやって、それから、丁重に、あっしにはお嬢
様はもったいのうごぜえます、とでも言って断りゃあそれでいい。
 何しろ、俺ぁ、もう一生、お凛と一緒だって心に決めたんだ。あんなに、いつも幸せそ
うに俺のためにつくしてくれているんだ。   他の女に目がいくなんてこと、   あるもの
か。・・・

 お軽さんは芝居好きだ。ちょうど今月は顔見世興行で、団十郎が「助六」を演るから、
ぜひ見てみたいそうだ。と、そんな要望で、与一は芝居見物のおともをすることになった。
与一たちの給金では、滅多なことでは入れない桟敷席での見物である。
 日取りの調整をして、大安の日がよかろうということで、その日は仕事を休むことにし
た。
 ついでながら、この時代、いわゆる鎖国時代には「曜日」の概念がないので、後世の人
間の中は、この時代の人間が正月と盆以外は働き続けだったと思っている者もいるが、そ
んなはずはない。生身の人間が、何百日も休まずに労働し続けられるはずがない。
 この時代の庶民の大半は今でいう個人事業主だからこそ、マイペースに、適度に休みを
とっていた。所得が総じて低いぶん生活費もさしてかからなかったから、月の半分ぐらい
しか働かない者もざらで、貯金はなくとも、町中が気楽にのんびりと暮らしていた。

「じゃ、行ってくっからよ」
「はいっ。行ってらっしゃい、与一さん。気をつけてくださいね」
 いつもの調子で言うお凛に、与一はやはり後ろめたいものを感じていた。
 いいか。これはやましい逢い引きじゃあねえ。親方の顔をたてるための、仕事のつきあ
いだ。どのみち、あちらの娘さんには断るんだ。いや、向こうから断ってくるかもしれね
え。・・・
 頭の中で自分に言い訳をしながら、与一は使いもしない道具箱をいつものように担いで、
長屋の木戸をくぐり出た。

 駿河町の伊勢徳の前に立つと、つい与一は圧倒されそうになる。間口が八間(けん)半、
蔵が四戸前の大店(おおだな)で、その身代は並のお大名など足下にも及ばないほどだと
いう。
 玄関口で丁重に挨拶をしてお軽を預かり、与一は市村座のある二丁町に向かった。お軽
が「仰々しいのは嫌い」とやらで、駕篭は用いず、徒歩での逢い引きである。
 色あでやかなお軽の着物や帯、それにかんざしを見て、
(ああ。お凛のやつにも、いつかこんなの買ってやりてぇなあ)
と、与一は思った。

 お軽は、何不自由なく育ったからか、奔放で気を遣わない性格らしく、与一が興味ある
かどうかなど忖度せず、ひいきの役者の話を一方的にしゃべった。
 が、与一にしてみれば、別に迷惑ではない。口べたな与一は、逢い引きで女のご機嫌を
とれるような話をするのは苦手だったから、向こうでペラペラとしゃべってくれれば、間
をもたす苦労がいらないというものだ。
 お軽の芝居うんちくを、はいはいと聞きながら、いつのまにか二丁町に近づいた。通り
町の往来を歩いていたとき、与一は、うかつにもそこに何があるかを忘れていた。

「あっ!」
 与一は蒼白になった。
 通り町の往来に面した二八そばの松の屋。お凛が奉公している店であった。気づいたと
きには、表を掃いているお凛と目が合った後だった。
「お・・・お凛・・・」
と、「何も後ろめたいことなんてない」はずだったにも関わらず、完全に狼狽してしまっ
た。
 お軽はと言うと、飽きずに当代の七代目団十郎の芸について熱弁をふるっていたが、も
はや与一の耳には入っていない。

(ち、違うんだ、お凛。・・・あのな。こ、これにはわけが・・・)
 お凛はホウキを持ったまま、微動だにせず、お軽と与一を見据えている。
 睨んでいる、といったふうではない。立ちつくしている、といった風情だ。なじるよう
でもなく、悲しむようでもなく。ただ、凍ったような表情で。
 お軽のことはすっかり忘れて、与一は松の屋の軒先まですっ飛んで走った。蹴つまずき
ながら駆けた。
「お、お凛。落ちつけ。落ちつけ。浮気じゃねえ。浮気じゃねえんだ。わけを聞いてくれ」
と、自分のほうこそ落ちつかずに、お凛の肩に手をやって、必死になだめるように話しか
ける。

「親方に頼まれてな、しかたねえことだったんだよ」
 しかし、与一の声が耳に入っていないのか、お凛はいっさい答えない。
「な。お凛。わかってくれよ。俺だってつれえんだよ」
 与一はお凛の肩を掴んで、ふと気づいた。
「おい・・・お凛・・・お凛・・・」
 何を言っても答えないどころか、ぴくりとも動かない。慌てて両肩を掴んでゆさぶって
みても、お凛の表情はまったく動かなかった。
 ガタッ。
 お凛はそのままの姿勢で、手もつかずに往来に倒れ込んだ。

「お凛ーっ!」
 与一は必死の形相でお凛の頬をたたき、胸を掴み、呼びかけた。どうした、どうしたと、
周りを野次馬が取り囲む。
「お、お軽さん。今日のところはすまねえ。この埋め合わせはきっとする。だから、今日
はここで失敬させてくれ」
 死んだように動かないお凛を背負いながら、お軽に深々と頭を下げ、あとは一目散に走
った。まずは、長屋の自分の部屋へ。
「お凛。お凛よぉ。どうしちまったんだよぉ。なあ、お凛よぉ。俺が悪かったからよぉ。
起きてくれよぉ」
 背中にもたれるお凛の体に、返事はなくとも、それでも必死に語りかけながら、往来を
脇目もふらずに走った。お凛の細い体が存外重いのには驚いたが、かまわずに駆け抜ける。
通り町から新右衛門町を走り、大鋸町を抜け、因幡町の長屋へ。

「あれ。与一つぁん。どうしたのさ、いったい」
 隣の内儀の声も与一の耳には入らない。
 汗びっしょりになって障子戸を開け、与一はまずは夜具を引っ張り出して、お凛を寝か
せた。
 そして、繰り返し呼びかけてみたが、やはり反応がない。
 どうしようか。そうだ、ともかくは医者だ。
 与一は、またそのまま着替えもせずにもう一度、駆け出した。
 まずは医者だ。再び往来を南へ。まずは新両替町の先、尾張町へ。

 半井(なからい)源太郎は、医は仁術なりをもって任じ、位の高いお目見得医にもなれ
る実力がありながら、町方の人々のための慈善的医療に徹している人物で、長兵衛の長屋
の連中も何かあったときには、この人を頼る。
「さ。早く!先生!うちのやつが大ぇ変なんだ!」
 半井は、もう60は超えていようという老人だったが、体力が自慢で、息子ほどの若い
与一に一歩も遅れずに駆けて来た。

「ど。どうでしょう、先生!」
と、寝床のお凛を挟んで、声を上ずらせながら取り乱して言ったが、半井は、お凛の腕を
とってから、少しの間、目をつぶって、それから低い声で、
「なあ、与一。たしかにおまえはまだ若いから、慣れていないだろうし、つらいとは思う
が・・・人間には、大切な人と別れなければならないときも、いつかは来るんだ」
と、慎重に言葉を選んで諭すように言った。
「つ、つまり、どういうことでい。うちのやつぁ、助からねえのけえ」
「医者と言ってもな、できることとできないことがある。それはわかるじゃろう、与一」
 与一のことは幼少の時分から知っている半井が、子どもに言い聞かせるように、深い呼
吸で言った。
「だ、だから、どういうことでい!はっきり言いやがれっ!」
と、食ってかかると、半井は嘆息して、
「長兵衛さんから、お前が嫁をもらったと聞いたとき、わしは、まだ早いと思ったんだが、
いい気だての娘さんだというから、お前のために、本当に喜んだんじゃ」
と、わざとゆっくり話すことで、与一を落ち着かせようとした。
「だから、わしは、お前にこんなことを言うのは残念なんだが・・・」
 なおも取り乱す与一に、半井は、お凛がもう死んでいると、遠回しに告げた。

「お・・・お凛!」
 そのまま、与一は畳の上に崩れ落ちた。古いがよく磨かれた畳は、たちまち水浸しにな
った。
「ああ・・・いいんじゃ。泣いていいんじゃ。本当につらいときには、何も我慢すること
はない。わしには何もできないが、お前が寂しければ、わしが一緒に泣いてやる」
 無責任なようだが、世間で名医と呼ばれる半井でも、死んだ者を生き返らせるすべはな
い。
 そもそも、この時代の医療というのは、結局は問診を頼りに漢方薬を調合するぐらいし
かできないのだから、所詮は気休めと言えば気休めだ。
 まして、脈をとろうにも脈がない、心音を聞こうにも心音が聞こえないというのでは、
時代条件と関係なく、どうにもできないではないか。

 半井が沈鬱な面持ちで帰って行った後も、与一は暗がりで行灯もともさずに、ひたすら
お凛の傍らで泣き続けていた。
 隣の内儀や平太、それに大家の長兵衛らが心配して、何か食えと言っても、ただ黙って
かぶりを振って、いつまでもお凛の亡き骸にすがりついていた。

それでも、朝はやってくる。明け六つの鐘とともに、町はいつも通りに活動を開始した。
既に、お凛がみまかったらしいとの噂は、長屋中に流れていた。
「あ・・・よ、与一つぁん!」
天秤棒を背負った平太の嬌声に、長屋中の首が心配そうに戸から覗き出した。左官の留吉
も、金魚売りの源治も、髪結いの新三(しんざ)も、提灯張りの文六も。
「与一よぉ、俺ぁ、何て言ったらいいか・・・」
平太が乏しい語彙の中から慰めの言葉をたぐり出そうとしたが、いつものように道具箱を
担いだ与一は、ただ黙って平太の肩を力なく叩き、何も言わずに木戸のほうへ歩き去ろう
とした。
「ちょいと、与一つぁん!」
お隣の茅島のご内儀が、乱れた髪を整えもせず、慌てた調子で、
「何も、こんなときぐらい、働きに行くこたぁないじゃないのサ。とりあえず、私ができ
ることはしてやるからさァ、あんたはちょっと休んだほうがいいよ」
と、しごく当然なことを言った。
「へい・・・ありがとうごぜえます。でも・・・」
与一の声はほとんど聞き取れないほど小さかった。

「そうだぞ、与一」
いつのまにか、大家の長兵衛も出てきていた。
「何も、こんなときに無理して働くこたぁねえ。儀作の棟梁にゃ、俺から話しといてやる
からな。しばらくは、休んでろ。な。お弔(とむれ)えのことも、万事、俺がやってやる
からな」
しかし、与一は答えず、ふらふらと、不確かな足取りで、道具箱を肩に、また出て行こう
とした。
「お。おい、与一!」
与一を止めようと手をのばした長兵衛の体を、横からまた別の手がのびてきて、制した。
「か、茅島さん!あんた、いつのまに!」
大家が唐突に現れた茅島又四郎に驚いているまに、与一は黙って、よろよろと出て行って
しまった。

「やいやいやい!何で邪魔すんでぃ!与一、出て行っちまったじゃねえか!」
長兵衛のかわりに、平太が口をとがらせた。
茅島は、両袖の中で腕組みをし、落ち着いた調子で言った。
「いや・・・こういうときは、むしろ外に出たほうがいいんでござるよ。それがしにも覚
えがござる。長屋の部屋にいるより、外で働いていたほうが」
へえー、そういうもんかねぇ。と、平太は少しだけ感心した。いつもさえない茅島の顔が
はじめて武士らしい風格を持って見えた。

その日、一日どんな仕事をしたかは覚えていない。ただ、仕事帰りには親方をはじめ、喜
助や佐八といった仲間たちが、黙って与一を飲みに連れて行った。与一はいつになく飲ん
だ。何ら愚痴がましいことも嘆き節も言わずに。ただ、無性にあおいだ。
「すまねえ。与一。本当にすまねえ。言葉もねえ。・・・もとはと言えば、俺が・・・」
親方が大きな体をを縮こませてしきりに頭を下げたが、与一はぼーっとして焦点もはっき
りしない表情である。

結局、閉店まで全員がつきあって、それから帰りは方向の近い佐八が、与一を長屋の木戸
口まで送り届けた。
「じゃ、俺はここで帰ぇるからな。な、いいか、与一よ。あんまり気ぃ落とすんじゃねえ
ぞ。って言っても無理だろうが、くれぐれも早まった考え(かんげ)えは起こすんじゃね
えぞ」
返事のない与一に、何度も念を押して、振り返り、振り返り、佐八は帰って行った。

もう日づけが変わろうかという刻限だったから、長屋の者は誰も起きていない。腐りかけ
たどぶ板を踏み、与一は自分の障子戸の前に立って、
(おや?)
と、様子がおかしいのに気づいた。
どういうことだろう。こんな真夜中に、部屋から明かりが漏れている。

ガラリ。
その引き戸を開けて、与一は、心臓が止まりそうになった。
「お・・・お凛!!」
畳の真ん中には、いつものように、お凛が正座をしているではないか。
「おかえりなさい、与一さん」
丁寧に三つ指をつくお凛に、われを忘れて、
「お、お凛、こりゃぁ、どういうことでぃ。こりゃぁ、一体・・・」
と、そこまで言ったとき、はじめて気がついた。お凛の傍らにいる、四尺ほどしかない、
異様ななりをしたおかしな男に。

「お、お前ぇは、あのときの・・・」
「お久し、ぶりです。与一、さん」
 あいかわらずの切れ切れの口調の声は、やはり金属を引っかいたように高かった。
 謎の男は、口元を不気味にゆるめて、
「アフター、ケア、です、よ」
と、聞き慣れない言葉を言った。
「この、娘の、A、I、は、こんな、簡単に、フリーズする、はずでは、なかった、ので
すが」
 謎の男が、平板な口調で続ける。
「よっ、ぽど、ショック、だった、んで、しょう。よっ、ぽど、あなたに、思い入れが、
生じて、しまった、んでしょう。でも、もう、大、丈夫。すっかり、なおして、メモリ、
も、増設して、おきまし、たから」
「す・・・すまねえ。本当にすまねえ」
 与一が、何度も何度も畳に頭をこすりつけた。
「いえ、お礼には、および、ません。あなたは、私の、命の、恩、人です、から。私に、
できる、ことを、するの、は、当たり、前です」
と言って、また謎の男は不敵な笑みを口元に浮かべた。

「この娘の、電池は、使い、切りです、が、あと、50、年は、もつで、しょう。どうか、
ずっと、仲良く、暮らして、ください」
 謎の男の言葉に、お凛が口を挟んだ。
「いえ。いいんです。私は、もういいんです。与一さんには、他にすきなひとがいるんで
す。ですから・・・私がいたら、私がいたら、邪魔ですから、どうかこのまま解体してく
ださい・・・」
と、切なそうに、しかし何かの覚悟を決めたようなきっぱりとした口調で言った。

「な、何を言ってやがるんだっ!」
 与一が叫んだ。
「あのお軽さんのことをお前に黙っていたのは悪かった。だが、あのひとは何でもねえん
だ。ただ、仕事上のつきあいで、おともしていただけだ」
 与一が必死に説明しても、お凛は、下を向いて、悲しそうに畳のケバをさわるばかりで
ある。
「だってぇ・・・与一さんには、やっぱり、人間の女のひとのほうが・・・」
 お凛がそう良いながら小紋の袖を目もとにやろうとしたとき、与一はお凛の唇を自分の
唇でふさいだ。
「お凛。俺には、お前ぇしかいねえんだよ」
 もう一度、力強くお凛を抱きしめた。
「お凛・・・」
 与一の手の中で、お凛の体の緊張がゆっくりと、いつものようにほどけていくようだっ
た。
「与一さん・・・」
 お凛は、うっとりした表情になって、自ら、与一の背に両腕をまわした。

 謎の男は、それを見届けると、例の薄気味悪い笑みを浮かべながら、いつのまにか、黙
って消えてしまっていた。野暮を嫌い、粋(いき)を指向する。そんな、この町の人々の
気風(きっぷ)をいつのまにか、この異界の者も身につけたのだろうか。

 それからの与一は、お凛という最愛の妻のため、ますます仕事に精を出した。職人とし
ての腕をメキメキと上げ、親方からも一人前の大工として認められるまでになった。
 そしていつしか、自らが親方、棟梁と呼ばれる立場になり、弟子たちの集団を統率し、
大きな仕事も自分の責任で請け負えるようになった。

 お凛はと言えば、いつまでも姿が変わらない。与一の顔にしわが刻まれ、髪に白いもの
が目立つようになっても、お凛はいつまでも、あの日の娘姿のままであった。二人の子ど
もも、いつまでたってもできる気配がない。
 与一の年齢でお凛が妻だと称するのも、いつか不自然になって、娘だ、と言うようにな
り、しまいには孫になった。
(しょうがねえよな。お前はお稲荷様のお使いだからな)
 与一は、不満に思うでもなく、いつまでも若い妻を大切にした。与一にかわいがられて、
お凛も幸せそうに毎日、与一のためにつくした。
 おかげで、与一は年齢を重ね、だんだん体が思うように動かなくなっても、ほとんど気
苦労なく、穏やかに老いを迎えることができた。最後まで、お凛を稲荷様の使いだと信じ
たまま。
 与一の死は、ご一新からほどない1870年。68歳であった。

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