太陽はその熱をアスファルトにあずけて水平線に消えていく。東京湾を支配する多層メ
ガフロート構造物は夕焼けに染まっていた。二十一世紀最初のパラダイスと銘打って30年
前に着工した人工浮島は今ではただの糞溜めだ。賭博に売春、麻薬に銃器。歌舞伎町で中
国と台湾の代理戦争をチンピラたちが請け負っていた時代は過ぎ去り、世界中から糞とゴ
ミを一手に引き受ける闇の歓楽街が出来上がっていた。実に荘厳で華麗で糞の匂いがたま
らない。

湾岸に佇むバラックの群れ。浮島から放たれる卑猥なネオンが辺りを薄っすら照らしス
ラム街化したかつての首都の一部を哀れんでいる。今では東京特区でしのぎを削る下っ端
たちの巣窟であり難民たちの仮宿であり娼婦たちの寝床であり帰還兵たちの安らぎの場だ。
つまるところは掃き溜めだ。人工の浮島で夢を見て、痩せた大地で貧困に喘ぐ。まったく
すばらしい世界じゃないか。
シローはコンクリートが剥げ落ち鉄筋が剥き出しになった細長いビルから街を見下ろし
嫌な気分になっていた。蒸し暑く淀んだ空気が街全体を覆い、死んだような湾岸線が視界
の端に映る。
「無用心にも程があるぞ」
首筋に硬いものがあたった。シローはぞっとしない。だが、しおらしく両手を挙げて降
参を示す。
「あらごとは苦手でして」
「その身体でか。上官が聞いたら失笑ものだな」
シローの背後を取っていた陰は後退する。危険なオモチャもも納められ、張り詰めた空
気は溶けていく。
振り返ると男の足下には汚らしい黒色のビニール袋が転がっているのが確認できた。歪
に膨らみ中身が複雑な形をしているのが推測できる。拾い上げるとシローはビニールを破
り捨てる。現れたのは屈曲したビターな色の脚だった。生々しいがその切断面からは無機
質な電子回路が覗いている。中心部には骨に似せた炭素フレームとその周辺には合成樹脂
性の人工筋肉がぎっしり詰まっている。
滅菌グローブを手につけるとシローはその二本の脚を掴み、ベッドに寝かされている素
体に歩み寄った。素体の両足は欠損しており瞳は閉じられている。
「ずいぶんと美人じゃないか。オマエの趣味か?」
眼光鋭く周囲を警戒しながら男は皮肉っぽい口調で言い放つ。その細身な体はシローと
は正反対で神経質そうだ。
「僕の担当は中身だけですよ」
「問題はその中身だ。間に合うのか?」
「任務を果たす。それだけです」
視線を眠り姫から離すことはなくシローは作業を続ける。結合部のMM(マイクロマシ
ン)活性をモニタリングしながら制御プログラムをベッド脇のディスクトップから落とし
込んでいく。同時平行で素体の視聴覚素子にプラグを挿し込み、知覚ソフトの書き換えと
ニューロチップの擬装設定をデリート。流れるように手順を消化していく。つながれた各
色のラインたちは人形を操る糸のようだ。
男は興味なさそうに忙しなく動くシローの指先を追っていたが自身のするべきことは何
もないことを確認すると腕に巻いた骨董品を眺めた。ロボットが笑いかけるようになって
も人類が火星に行っても時を刻む速度は変わらない。半世紀前に作られた時計でもことは
足りる。
「明朝0500から状況を開始させろ」
「……了解」
作業を中断してシローは男の背中を見送った。部屋にはシローとドールだけが残された。
浜風がうがたれた窓穴から吹き込んでくる。腐臭に似た饐えた匂いだった。
シローは褐色の機械を見た。噛み付くように見据えていた大腿の付け根には大陰唇と小
陰唇が花開いていた。
シローは不要な器官だと主張した。なぜなら軍用兵器だからだ。だが、戦術的見地から
必要だと判断された。東南アジアでの非正規戦闘で実戦配備されたドールだったが、その
任務の特殊性からこの器官が重宝されたという。外部との接触を極力抑え情報漏えいのリ
スクを最小限にする――腰を振ることしか能のないレザーネックたちの娯楽にもなる兵器。
感染症の心配もなく、さらには経費削減にも一役買う。糞ったれどもの主張はこうだった。
確かに性器自体は市販のセクサロイドから転用すればよかった。有機トランジスタ・ア
レイの補正が面倒ではあったが、女の肉体の再現度は高まる。粗野な兵器とは一線を画す
妖艶な人形のできあがりだ。まったく税金の無駄遣いだ!
MITのラボを出て軍に身を置くようになってから繰り返されるシローの神経インパル
スでの批判。口に出せば折り曲げられ、しまいには減給だ。せめて神経に不満を走らせる
くらいの自由はあってしかるべきだ。遅々として進まないインジケーターを眺めながらシ
ローはつぶやいた。
「今夜は徹夜だな」

例えどんなに僅かであっても朝日は眩しいと相場が決まっている。薄目を開けて寝惚け眼
で周囲をうかがうと闇が壁に持たれかかっているのが分かった。「もう動けるのか?」。
シローは声をかける。
「おかげさまでね。データの破損もほとんどないわ」
ネットの海からデータを注ぎ終わったドールだった。昨晩から未明にかけての時間をかけ
た成果は順調のようだ。数万の暗号ファイルの統合も模擬人格OSも正常に機能している。
机に突っ伏していたシローがモニター隅の表示を見ると――0426。予想よりも30分近くも
早かった。
錆びついたような身体をベッドに転がすとシローは人形を見据える。歩み寄るドールに光
が当たりその完成された肉体は輝いていた。光を吸った浅黒いスキンは張りがあり、一見
すればその下に人工物の塊が詰まっているとは露ほども思わないだろう。そして整った顔
立ち。水晶のように透き通った光学式レンズの瞳と厚みのあるぽったりとした唇。各部品
は一級品で人も羨む作りだが、総じてみればどこか機械的で愛嬌の欠片もなかった。
「服、どこかしら?」
ドールは言った。さらした裸体を恥ずかしがるようすはないが、不都合だといった風だ。
シローは目配せでクローゼットへ導く。かろうじてそれがクローゼットだと理解できる程
度の木製の物体があった。穴だらけで腐食も進んでいる。
シローはベッドに腰掛けて日差しを感じていた。太陽はまだ視線の下を這っており水平線
にはオレンジのナイフが横たわっている。廃墟同然の街は死体のように黙り込み水面の魔
都も寝静まっていた。これから始まる荒事に世界はまだ気づかないでいる。
ギシッとベッドが沈む。ドールの不自然にならない程度の重量がかかる。上半身にタイト
なシャツを着ただけで下半身は剥き出しのままだ。手には用意しておいたジャケットなど
の衣類が重なっている。どこにでもありそうな衣服だがその材質はカーボンナノチューブ
が折り込まれた強化繊維で仕上がった軍用品だ。平凡なのはそのデザインだけだった。
「まだ時間はあるようだけど」
ミッションファイルを読んだのだろう。行動開始まで余裕があることはドールの了解事項
だった。
ヒトのような温かさがシローの角ばった指先に絡んでくる。
「生憎ぼくにそういう趣味はないんだ」
ドールは抑揚なく「そう」とだけ唇を上下させると強引にシローの身体を引き倒した。
ベッドのスプリングがたわむ。
「アドレナリンの生成が活発みたいだけど、やりたくないの?」
「それはただの緊張だよ。因果が一義的に決まるとは限らない。違うかい?」
シローはドールのぬくもりを無骨な肌に受けつつ情欲の誘いを断った。限りなく人に近い
人形にマウントを取られてシローはささやかな興奮が入り混じったのを自覚した。苦笑せ
ざるを得なかった。
「なぁ、ヒトを殺す瞬間、何を考えてるんだ?」
かねてから秘めていた疑問がするりと口から漏れた。ドールの人工知能の基礎部分はシ
ローの手によるものではなかった。機密に抵触して知ることの出来ないブラックボックス。
半ば人間の脳と同じだ。自らと同じように。
「なにも……、任務の達成がすべてよ」
嘆息交じりにシローは視線を外して呟いた。
「もう時間――っぅ」
言い終わるや否やドールに唇を奪われていた。ドールは舌を伸ばして口腔を弄り犯すよう
に刺激する。すると自然、シローも積極的に舌を絡ませた。脊髄が溶け出すような快感が
支配する。
――――んッ
「帰ったら続きをしましょ」
ドールは立ち上がり手にしていた服をまとう。そして――

映像にノイズが走り世界は黒く塗りつぶされる。シローのAIは完全に沈黙した。信号の
送られなくなった肢体は糸の切れた人形のように力ない。いや、人形そのものだった。

「機械と機械が身体を重ねることに躊躇うことなんてないのに――ヒトがそうするように、
すればいいのに」

おわり

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