『本日の ご来店 まことにありがとうございました。 20:30をもちまして 本店は…』 抑揚のない女性の声で、店内に閉店の放送が流れ始めた。金曜は正社員達が我先にと 帰宅するが、数少ない平日のバイト要因である和美は淡々とレジを締める作業を始める。 「すまんね、和美ちゃん…最近はこの業界も人手が足りなくてさ」 「私も頑張って生活費かせがないと、年を越せないですから」 冴えない銀縁のメガネをくいと指であげ、レジ締めの手順を手際よくすすめていく。店先に 立ってから一年が過ぎようとしている今、同期の店員はもう誰一人として残っていなかった。 初めの内はスズメの涙程しか出なかった給料も、今ではすっかりこの店の稼ぎ頭といっていい 金額になっている。 「和美ちゃん、年末はどうやって過ごすんだい。実家に戻るの?」 手順の最後、Enterキーを押そうとしていた彼女の指が、ぴたりと止まる。 「…年末は特に予定、入ってません」 にこやかな表情で和美に語りかけていた店長の表情が、見る見る青ざめていく。 「す、すまん! 和美ちゃん、君は確か…そんなつもりでは」 「気になさらないで下さい。もう慣れてますから」 Enterキーが弾かれるように、彼女の指で押し込まれる。いつもより固く、大きな音が響き 渡ったが、店内に流れている蛍の光のメロディーにすぐさまかき消された。 「…」 すまなさそうな目つきで背中を丸め、自分を見つめている店長を尻目に薄紫のエプロンを 脱いだ和美はレジ裏の小さなスペースに丸めてあったダウンジャケットを無言で羽織った。 「お疲れ様でした」 店長の顔を見ずに小さな声で挨拶をすませた彼女は、足早に店先を出た。正直、店長の迂闊な 言葉回しは全然気になっていない。何故なら、彼女の心は既に別の店へと先走っていたからだ。 (…メールをチェックする暇もなかったけど、きちんと届いてるのかしら) PCやドールの専門店が立ち並ぶメインストリートの人ごみを避けるかのように、和美は勤めて いる店の脇道へ素早く逃げるように走り込んだ。 大きなビルディングが整然と並ぶメインストリートとは違い、雑居ビルが無秩序に立ち並ぶ 通称、『裏街道』。かつて『電気街』と呼ばれたこの道は、今や見る影もないぐらい寂れている。 シャッターが閉まっている店舗がやたらと目立つのは、20:40という時間だけのせいではなかった。 ”都合により、○月△日をもちまして閉店いたします” ”■月×日より、店舗移転いたしました。移転先は…” 閉まっているシャッターの内、ほぼ半分にはこういったビラが貼り付けてあるのだ。不意に びゅうっと音を立てて吹き荒れた冬の強風に煽られ、ちぎれかけていたチラシが吹き飛んだ。 「…っ」 ちぎれとんだビラが、和美のほほにはりついた。思わず顔を伏せると、渇いた音をひびかせて また違う方向へビラが飛んでいく。少し間を置き、顔を上げた先に小さな店のショーウィンドウが 光を放っていた。建て付けが悪い扉を軋ませ、ショーウィンドウとは裏腹に薄暗い店内へ足を 踏み入れる。 「いらっしゃい」 ニットの帽子を被った初老の男が、じっと和美の顔を見ている。 「こんばんわ」 「…例の頼まれもの、入ったよ」 「よかった、ちゃんと覚えててくれたんだ」 「あたしがお前さんとの約束破った事、今までなかったでしょ」 「それもそうね…で、どれぐらいのものが入ったの?」 「そう慌て成さんな、今出してくる」 男は椅子から立ち上がり、店の奥に消えていった。暫くすると、店の奥からガラガラと何かが 崩れる音が断続的に聞こえてくる。こうなると時間がかかるのよね…溜め息をついた和美は、 背後の棚に陳列されている商品を眺めた。 (よくもまぁ、こんな怪しげなものばかり置いてるわね…) 表にあるアダルトソフト専門店でも陳列できないような、”大人のおもちゃ”の数々。PCの USBポートにつなぐと、ゲームのキャラクターに連動して動く1/12の女性型ロボット。 (そういえば、この前来た時と置いてる場所が変わってるような…) 数年前から配置が変わっていなかったUSBポート接続のバイブの位置が、かなり右の方に 寄っている。残されたホコリの跡を目で追いかけていくと、見慣れないダンボール箱が置いて あった。 (…?) 「ようやっと見つかったわい、きちんと整理しとくんだった…っと、どうした?」 いつのまにか、数個の紙袋を抱えた男が和美の後ろに立っていた。 「驚かさないで。この店のものなんて、私の興味ないものばかりだもの」 「それにしては、えらく熱心に見ていたじゃないか」 「…これはちょっと例外よ」 「ほほう、そいつに目をつけるとは…お前さんも好きものよのう」 男は紙袋をカウンターの上に置き、和美の横からダンボール箱を手にとった。 「1週間程前に仕入れたばかりなんだが、鮮度と品質は保証する」 「御託はいいわ。中身を見せて頂戴」 「やれやれ…年寄りをせかすもんじゃない」 男がダンボールの梱包を丁寧に解き、中身をそっと和美に見せる。 「これは…」 「フェフェフェ…どうだ?」 「流石ね…でも、こんなの何処から仕入れたの?」 「そんな無粋な事を聞くとは、お前さんらしくないのう」 「…今日はあまり手持ちがないから、これだけ渡しておくわ。残りはいつもの口座へ振り 込んでおくから。いいわよね?」 財布から札を数枚取り出し、男の手に握らせる。犯罪ではないが、表の店ではとてもじゃ ないが出来ない取引だった。 「そいつのデバイスドライバはいつもの場所に暗号化してアップしてあるから、それを使う といい」 「ご丁寧にどうも。じゃ、あたしはこれで…よいお年を」 「ほほっ、そういえばそんな季節だったかの。それじゃ、よいお年を」 予定よりも少し増えた荷物を両手に抱え、和美は店を出た。アルバイト先を出た時と 比べ、随分と冷え込んでいる…と思った瞬間、目の前にはらりと白い花びらのようなものが 舞い落ちた。 「雪…」 和美の白い吐息と舞い落ちる白い花びらが混じり、幻想的な雰囲気を醸し出している。彼女の 口元がふと緩む。 「…早く帰らなきゃ」 街灯に照らされた和美の影が走り出した反対方向に伸び、やがて消えた。 「ただいま」 「お帰りなさいませ、和美様」 和美より少し背丈が低い黒髪の少女が、ワンルームマンションの玄関をくぐった和美を迎えた。 「春海? 駄目じゃない、ちゃんと寝てなきゃ!」 「私は大丈夫で…あっ」 春海と呼ばれた少女の右膝がかくんと折れ、靴を脱いだばかりの和美の身体へ寄りかかる。 「ほら、立ってられないじゃない…って、足の震えが酷くなってる!」 「私の身体は問題ありません、それよりも和美様の方が疲れていらっしゃいます」 和美に身体を支えられた春海は、あくまでも無表情だ。しかし、折れた右足はぶるぶると 小刻みに震え、とてもではないが彼女の体重を支えられるようには見えない。 「…夕食をご用意いたしましたので、どうかゆっくりとお召し上がりくだ…」 「だめよ、あなたの身体を治して上げるのが先」 「ですが」 「つべこべ言わないの…ほら、私の背中につかまって」 「…申し訳ありません」 和美は彼女の肩をかかえ、自室のベッドへ春海の体を横たえた。踵をかえして玄関に戻り、 工具とPCが乱雑にちらかっている机の脇へ荷物を置く。机の上には、春海が作ってくれたで あろう夕食が、なんとか確保したスペースに鎮座している。ご飯、味噌汁、ハンバーグ、野菜 炒め…だが、何かが違う。 「春海、あなた…手を見せてみなさい」 「問題ありません、和美様」 「いいから見せなさい!」 和美は春海の両腕を強引に引き寄せ、手の平から指をじっくりと見つめた。 「申し訳ありません」 「いいから、親指から小指まで一本ずつ動かしてみなさい」 言われた通り、春海は両手の指を一本ずつ曲げ、伸ばした…筈だった。 「やっぱりおかしいと思ったわ。あなたが味噌汁をこぼしたりハンバーグを崩したり、あまつさえ 盛りつけがぐっちゃりとなるようなヘマは絶対しないもの」 まともに動く指は右手の親指と中指、左手は人さし指と薬指だけだった。他の指は痙攣しながら 不規則な速度で曲がり、曲がりきった後は中々伸びてこない。一番酷いのは左手の親指で、 いつまで待っていてもピクリとも動かない。 「いつからこんな状態だったの」 「三日前です」 気付かなかった…というよりは、気付く暇がなかったというべきか。ここ最近、特に三日前から 帰宅が深夜になり、夕食を食べる元気もなかったのだ。当然朝食も抜いていたから、春海の 異常に気付く事ができなかったのだ。 「ごめん、春海…あたしのせいだわ」 「そんなことはありません、和美様」 よく見れば、肘の関節も微妙だが震えているように見える。このまま放っておけば、彼女の 腕は直に動作しなくなってしまうだろう。 「機材はそろったんだから、早くなんとかしないと」 「…駄目です。和美様が必要な栄養を摂取されることが最優先です」 震える右脚をおさえながら、春海はベッドから立ち上がろうとする…が、立ち上がった瞬間に 右膝は敢え無く折れ曲がり、ベッドへ尻餅をつくように倒れ込んでしまう。 「和美様、私は…」 「あー、もう! 言い出したら聞かないんだから…わかったわよ、食べるから大人しくしてなさい!」 「承知いたしました、和美様」 和美が帰宅してから初めて笑みを浮かべた春海は、安心したかのようにベッドに横たわった。 (まったくもう、誰の人格をモデルにしたんだか…) 盛りつけが乱れ、崩れかかったハンバーグを頬張りながら、和美はあのダンボールの中身のことを 考え始めていた。 (続く)