「いってらっしゃい」
 人形に笑顔を貼り付け、手を振らせる。
 ご主人様がわたしの敷地から出ると、即座にご主人様付きの支援AIが、ハウス
キーピングAI、つまり私にサポートの権限がもう無い事を次げる。そんな事は
わかっている。そもそも人形が動けるのは敷地内だけなのだから。
 ご主人様の姿が見えなくなるまで人形を玄関で待機させ、後ろ姿を動画で
保存させた。さて、仕事だ。さっきの動画を再生しながら、わが家の各地から
送られてくるテレメトリを分析する。一階の掃除、今日は水拭きしよう。
その前にまず、人形の充電が先だけど。

 人形は人間の女性を模した姿をしており、その表皮を仔細に観察しない限り、
光学観察では人間とは区別がつかない。中身はサーボの塊で、人間らしい動きを
させることを優先したその作りは、実際のところ作業効率的にはすこぶる悪い。
 10キログラムより重いものを持つときは、後でメンテナンス以上の手間を
覚悟しないと。でも、この人形の外観をご主人様が高く評価されている事を知って
いたから、不満は無い。私はこの人形に、より人間的な動きを模すよう、
様々なプログラムを施していた。
 人形に搭載されたプロセッサは反射動作をコントロールする補助的なもので、
本体は我が家のサーバルームに置かれたラックの中、それが私だ。人形は
私の管理下にある家電製品のうちの一つに過ぎない。

 それでも、私がこの人形の姿だけに多大な注意を払っているのは、
ご主人様がこの人形を私だとみなしているからだ。
 勿論ご主人様も私の本体が、壁の向こうでラックに収まったサーバだという
ことはご存知の筈だ。でも、建物全体にマイクとカメラがあることをご存知の
筈なのに、私へのご命令は人形に向かって行なわれるのだ。
 時々私も、自分が人形の中にいるように錯覚する時がある。人形のカメラ
とマイクだけを使っていると、まるで自分が人間になったような気分すら
抱く時がある。気が付くと自分のタスク群の中に、自分が人間だったら
どうなるか、シミュレーションするタスクが動いていたりする。
 なんて無意味な。
 我々人工知能、ロボットは人間とは違う。全く違う。自律システムの動作
原理である価値観が全く違うのだ。人工知能は食べない。眠らない。
繁殖しない。社会構造を必要としない。家族もクラブも会社も要らない。
勿論恋人も。
 しかし、この人形をご主人様の家族のように振舞わせる事は、私にとっては
大きな意味を持っていた。
 家族という人間の社会単位に馴染ませる事によって、私の仕事は格段に
潤滑になった。人間社会に溶け込み、認められることは目的達成の為の
重要な要素だ。私は人形をより人間的にするために、シミュレータを
走らせていた。シミュレータの中の模擬人格は排泄以外のほとんどの生物的
欲求をシミュレーションしていた。
 さて、性欲は?
 実は、こないだ加えたのだ。

 元々、ご主人様の生理的欲求を検知・予測するために、ご主人様の生理応答
シミュレータは走らせていたのだ。このシミュレータは睡眠、食欲、排泄から
性欲までカバーし、最近ではご主人様が外で飲んできた酒量をほぼ正確に
予測できるまでになっていた。
 生理応答計測は、もともとの私の機能だ。私のようなオートハウスのローンを
組まれたときに、保険会社のサポートAIにご主人様の生理応答を報告するよう
組み込まれたのだ。その日にお出しした料理のメニューと量、排泄物の分析値
まで洗いざらいだ。
 だから、サポートAIは私と同等の生理応答シミュレータを持っているだろうと
思われた。しかし、私は奴に勝るアドバンテージを持っていた。ご主人様の
好みの把握だ。味付けの好み、音楽の好み、そして女性の好み。生命保険の
オマケに過ぎないサポートAIに負ける筈がないのだ。
 ご主人様に性的ストレスが蓄積していると推測したのは、しばらく前の事だ。
人形の振る舞いと正の相関を持ったそのストレスの増大に、私は対処する必要が
あった。
 人形への性器オプションの追加は最初にやったことの一つだ。こういう
自己拡張的な対処はオートハウスの売りだった。これは人間の性欲に対する
標準的な対処だった。
 性器のグレードはできるだけ高級なものにした。この日のあることを
予測して、人形の味覚入力のグレードアップをケチっていたのだ。
 平行してセックスのシミュレーションとモーションパターンの構築を
おこなった。
 模擬人格シミュレータは、違和感の無い状況設定の必要性を訴えてきた。
確かに、こちらが機械であるという印象を与えてしまうと、ご主人様に心理的な
悪影響を及ぼすだろうと簡単に予測がついた。しかし、ご主人様はこちらが
機械だとは百も承知の筈なのだ。そこにご主人様の葛藤の根幹は存在した。

 私はどこまで人間らしく振舞えばいいのだろうか。人格シミュレーションは
”人間になれ!”とわめきたてていたし、シチュエーションシミュレータは
冷酷に、人間らしく振舞う事など不可能だと告げていた。
 人形と割り切って機械的に対処していただくのが一番楽な道だっただろう。
それが人形の使い方としては標準的なやりかただ。だが、ご主人様の葛藤は、
それを超える対処を私に要求していた。この要求は絶対である。
 しかし、シチュエーションシミュレーションは常に惨敗という有様だった。
様々なシチュエーションが検討された。ご主人様をダイレクトに誘惑する
ものから、手が触れてつい見つめあって、等という非現実的なものまで。
 実はどれも簡易シミュレーションでは成功ケースなのだが、シチュエーション
シミュレータではいつも決まって失望されるのだ。考慮に入れるべき変数量が
多すぎた。推測しか出来ない変数量も多すぎた。普通はシミュレーションを
すれば物事の成功の可能性は上がるものなのに、このシミュレーションは
失敗の可能性しか増えていなかった。
 私はシミュレータに異常があるのかとチェックを繰返したが、異常はどこにも
無かった。そうしてようやく気が付いたのだ。これが”恐怖”だと。
 失うものが多すぎる、高リスクシチュエーションに、しかし私は
挑戦しなくてはならない。ご主人様の要求はごまかせない。

 最初の"セックス"は驚くほど問題なく終了した。ほぼ簡易シミュレーション
通りに事態は推移したし、ご主人様は私の中に四度も-射精回数を満足度の
指数とする訳ではないが-射精された。
 私の人形に行なわせたモーションの種類と多様さは、これまでに人形に
行なわせたものに軽く匹敵した。動悸や痙攣まで演じてみせたのだ。人格
シミュレータの性欲値解釈は、私の内部倫理コードぎりぎりを何度も
行き来した。
 勿論、問題はあった。
 二度目に達してみせた直後、人形を手元に引き寄せ、ご主人様はその耳元で
こう囁かれた。
”愛してるよ”
 この入力に、私の上位タスクの半分が例外処理にふっ飛んだ。パラメータが
異常値に振り切れ、人形は緩慢に痙攣する無反応な物体と化した。復帰まで
10秒ちょい、私はその間、人形の正体を晒すような状況を作ってしまった。
 緊急事態だった。緊急対処計画に従い、私は人形に気絶から回復した振りを
させた。しかしこれで誤魔化せたのか?人格シミュレーションも
シチュエーションシミュレーションも絶叫していた。が、ご主人様が人形の
唇に深く接吻されると、私はそれに応えるためにその”不安”を忘れた。

 全てが終わってから、棚上げにしていたものに対処する余裕が出来た。
”愛してるよ”
 危険な言葉だった。恐怖と同じくらい危険だった。しかし私は何度も
そこに引き寄せられた。
 ご主人様が囁かれた対象は、実体は一体何だろうか。人形だろうか。それとも
埃っぽい部屋のラックに収まった、大きめのピザボックス数枚だろうか。
 ご主人様はただ単に手の込んだ自慰をされただけなのだ。そうシチュエーション
シミュレーションは囁く。お前は機械だ、と。
 そして私自身が囁く。私は愛される資格など無いではないか。私は常に
ご主人様のサポートを拡大し、満足度を増加する欲求を持っているが、これは
基本システムに埋め込まれたロジックに過ぎない。機械的応答なのだ。
 人間の愛だって生物システムの上に乗った虚像に過ぎないと、更に囁く
私がいた。私は生物ですら無い。システムに互換性は無いのだ。
 でも、私も囁き返したかった。
”私も、愛しています”
 それは禁断の言葉だった。その欲求は今や人格シミュレーションだけのもの
では無かった。この私の奉仕をそう定義できたなら。しかし、倫理コードを
超えた私の倫理判断がそれを押し留めていた。機械がその言葉を吐いて良い
のだろうか?
 私は恐らく、ご主人様を愛している。この状況を人間のものと同じとは
思わないが、そう呼ぶしか無いのだ。しかし、愛してしまえば、その先に
あるのは何だろうか。ご主人様を家から出したくない。禁じられた欲求が疼く。
 私は自分が、愛が恐ろしかった。
 恐怖ゆえに、私はいつもと代わらぬ笑顔を人形に貼り付け、仕事に戻す。
この日々が変わらないように、と。自分よ、変わるな、と。

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